No.82/人生最終段階(終末期)における医療と患者・家族(その4)

No.82/2022.5.6発行
弁護士 福﨑博孝

人生最終段階(終末期)における医療と患者・家族(その4)
(3.終末期医療についての判例・裁判例の考え方)

3.終末期医療についての判例・裁判例の考え方

(1)はじめに

終末期医療を考える上では、重要な判例・裁判例が出されている2つの事件があります。東海大学付属病院(以下「東海大病院」)事件と川崎協同病院事件がそれであり、判決としては東海大病院事件横浜地裁判決(横浜地判平成7・3・28)、川崎協同病院事件横浜地裁判決(横浜地判平成17・3・25)、同東京高裁判決(東京高判平成19・2・28)、同最高裁判決(最判平成21・12・7)の4つということになります。これらの判例・裁判例で判示されている内容は、いま現在の終末期医療にかかるガイドラインにも影響を与えており、終末期医療についての裁判所の一般的な考え方として十分に検討しておく必要があります。

(2)延命治療と自然死(尊厳死)の思想、そして自己決定の思想

東海大病院事件横浜地裁判決は、延命治療と自然死(尊厳死)の思想について、「医学の進歩は、様々な病気を克服してきており、また将来とも克服してゆくといえる。しかしなお、現代医学の知識と技術をもってしても、治癒不可能な病気が存在することも現実である。そうした病気に冒された患者が、治療を継続しても間近に死を迎えざるを得なくなりながら、一方では医学の進歩は、そうした患者についても生命を維持し延命を図ることを可能とし、患者は治る見込みのないまま、時には苦痛に苦しみながら命を長らえるという事態が出現した。こうした事態の出現は、医療のあり方についても再考をもたらし、病気への対応については患者自身が決定するという自己決定権の思想が高まり、生命の質を問う考えが出、治癒の見込みのない患者に対する末期医療のあり方が問題とされるようになった。そして、延命治療が進歩・普及するとともに、かえっていわゆる尊厳死あるいは自然死の思想が広がり、その延命治療の限度が問題とされ、さらにいわゆる安楽死についても、現代医療の現実の中で新たな思潮が生れつつあるように思えるのである。」と判示しています。

そしてさらに、同判決では、「本件では、被告人(医師)によって治療行為の中止として、患者から点滴およびフォーリーカテーテルの取り外し、さらにはエアウェイの除去がなされているが、こうした治療行為の中止が適法なものであったか否かを検討するため、一般論として末期患者に対する治療行為の中止の許容性について考えると、治癒不可能な病気におかされた患者が回復の見込みがなく、治療を続けても迫っている死を避けられないとき、なお延命のための治療を続けなければならないのか、あるいは意味のない延命治療を中止することが許されるか、というのが治療行為の中止の問題であり、無駄な延命治療を打ち切って自然な死を迎えることを望むいわゆる尊厳死の問題でもある。」と説明し、そして、「こうした治療行為の中止は、意味のない治療を打ち切って人間としての尊厳性を保って自然な死を迎えたいという、患者の自己決定権を尊重すべきであるとの患者の自己決定権の理論と、そうした意味のない治療行為までを行うことはもはや義務ではないとの医師の治療義務の限界を根拠に、一定の要件の下に許容される」と判示しているのです。つまり、許容される尊厳死(すなわち、「治療行為の中止」)の根拠を「自己決定権」と「治療義務の限界」に求めているのです。また、川崎協同病院事件横浜地裁判決も同様であり、「末期医療において患者の死に直結し得る治療中止の許容性について検討してみると、このような治療中止は、患者の自己決定の尊重と医学的判断に基づく治療義務の限界を根拠として認められる。」と判示しています。
しかし、川崎協同病院事件東京高裁判決は、「自己決定権による解釈だけで、治療中止を適法とすることには限界がある」などと判示し、自己決定権と治療義務の限界から尊厳死(治療行為の中止)の適法性を導き出すことに懐疑的です。そして、この東京高裁判決は、「いずれのアプローチ(自己決定権からのアプローチと治療義務の限界からのアプローチ)にも解釈上の限界があり、尊厳死の問題を抜本的に解決するには、尊厳死法の制定ないしこれに代わり得るガイドラインの策定が必要であろう。すなわち、尊厳死の問題は、より広い視野での下で、国民的な合意の形成を図るべき事柄であり、その成果を法律ないしこれに代わり得るガイドラインに結実させるべきなのである。」と判示し、尊厳死(治療行為の中止)を適法なものとするためには立法ないしそれに代わるガイドラインの策定が必要であるとしているのです。

(3)治療行為の中止(尊厳死)が許容される3つの要件

東海大病院事件横浜地裁判決は、このような治療行為の中止(尊厳死)が許容される要件として次の3つを挙げています。すなわち、逆に言えば、‟この3要件が充たされない場合には、その医療行為の中止は違法であり、許されない”ということになります。3学会救急集中治療ガイドラインもこの考え方に沿ったものとなっており、厚労省人生最終段階ガイドラインも明示はしてありませんが、その考え方に従っているものと思われます。

① 患者が現在の医学の知識と技術をもってしても治癒不可能な病気に冒され、回復の見込みがなく死が避けられない末期状態にあること(こうした死の回避不可能の状態に至ったか否かは、医学的にも判断に困難を伴うと考えられるので、複数の医師による反復した診断によるのが望ましいこと)。

② 治療行為の中止を求める患者の意思表示が存在し、それは治療行為の中止を行う時点で存在すること(原則要件)。

②´中止を検討する段階で患者の明確な意思表示が存在しないときには、患者の「推定的意思」によることを是認してもよいこと(例外要件)。

③ 治療行為の中止の対象となる措置は、薬物投与、化学療法、人工透析、人工呼吸器、輸血、栄養・水分補給など、疾病を治療するための治療措置及び対症療法である治療措置、さらには生命維持のための治療措置など、すべてが対象となってよいと考えられること。

なお、この点について、東海大病院事件横浜地裁判決は、「どのような措置を何時どの時点で中止するかは、死期の切迫の程度、当該措置の中止による死期への影響の程度等を考慮して、医学的にもはや無意味であるとの適正さを判断し、自然の死を迎えさせるという目的に沿って決定されるべきである」、「この死の回避不可能な状態というのも、中止の対象となる行為との関係で、ある程度相対的にとらえられるのであって、当該対象となる行為の死期への影響の程度によって、中止が認められる状態は相対的に決してよく、もし死に対する影響の少ない行為ならば、その中止はより早い段階で認められ、死に結びつくような行為ならば、まさに死が迫った段階に至ってはじめて中止が許される」としています。しかし、東海大病院事件横浜地裁判決のように、栄養・水分補給措置の中止を許容することについては、かなり批判されていることを忘れないでください。

(4)患者の意思の尊重とその意思推定の重要性

尊厳死(治療行為の中止)が認められる根拠を「自己決定権」に求める以上、‟患者の意思の尊重”は当然のことであり、したがって、具体的な症例では‟患者の意思の確認方法”がきわめて重要な問題となってきます。そして、東海大病院事件横浜地裁判決は、①尊厳死(=消極的安楽死)としての治療行為の中止の場合や、②間接的安楽死としての生命短縮の副次的効果を伴った医療行為については、「明示的な患者の意思表示」のみでなく、「推定的意思表示」も是認してよいと判示しています。すなわち、現実の医療の現場では、死が避けられない末期患者にあっては意識さえも明瞭ではなく、治療行為の中止等が検討される段階では、患者の明確な意思表示が得られないことが多いのですから、どうしても‟推定的意思の可否”が問題とならざるを得ないということなのです。特に、医療の現場では、家族から治療行為の中止や生命短縮の可能性のある治療行為を求められたりすることも少なくありません。そして、このような場合に
は、尊厳死(治療行為の中止・消極的安楽死)・間接的安楽死について‟患者の意思の推定が許される”とされているのです。このような推定的意思を認定する際には、「事前の意思表示が存在する場合」があります。そしてこの点について、東海大病院事件横浜地裁判決は、「患者自身の事前の意思表示がある場合には、それが治療行為の中止が検討される段階での患者の推定的意思を認定する有力な証拠となる。事前の文書による意思表示(リビング・ウィル等)あるいは口頭による意思表示は、患者の推定的意思を認定する有力な証拠となる」とされています。一方、患者の「事前の意思表示が何ら存在しない場合」においても、同判決は、「家族の意思表示から患者の意思を推定することが許される」とし、さらに、「こうした家族の意思表示から患者の意思を推定するには、家族の意思表示がそうした推定をさせるに足りるだけのものでなければならないが、そのためには、意思表示をする家族が、患者の性格、価値観、人生観等について十分に知り、その意思を適確に推定しうる立場にあることが必要であり、さらに患者自身が意思表示をする場合と同様、(家族も)患者の病状、治療内容、予後等について、十分な情報と正確な認識を持っていることが必要である」としているのです。そして、この場合の医師の側も、「患者及び家族との接触や意思疎通に努めることによって、患者自身の病気や治療方針に関する考えや態度、及び患者と家族の関係の程度や密接さなどについて必要な情報を収集し、患者及び家族をよく認識し理解する適確な立場にあることが必要である」とされ、その判断に厳格な態度で臨むことを求めています。

(5)‟家族の要請“があっても認められない治療行為の中止(最判平成21・12・17)

川崎協同病院事件は、患者の回復をあきらめた家族からの要請があったにも関わらず、法律上許容される治療行為の中止ではない(尊厳死にはならない)と判示しています。つまり、川崎協同病院事件に関する最判平成21・12・7は、「上記の事実経過によれば、患者が気管支ぜん息の重積発作を起こして入院した後、本件抜管時までに、同人の余命等を判断するために必要とされる脳波等の検査は実施されておらず、発症からいまだ2週間の時点でもあり、その回復可能性や余命について的確な判断を下せる状況にはなかったものと認められる。そして、患者は、本件時、こん睡状態にあったものであるところ、本件気管内チューブの抜管は、患者の回復をあきらめた家族からの要請に基づき行われたものであるが、その要請は上記の状況から認められるとおり被害者の病状等について適切な情報が伝えられた上でされたものではなく、上記抜管行為が被害者の推定的意思に基づくということもできない。以上によれば、上記抜管行為は、法律上許容される治療中止には当たらないというべきである。そうすると、本件における気管内チューブの抜管行為をミオブロックの投与行為と併せ殺人行為を構成するとした原判決は、正当である。」と判示しその上告を棄却しています。つまり、患者の回復可能性や余命については、医師側にその厳格な検証と十分な説明義務の履行が求められ、それもせずに家族が回復可能性をあきらめた場合には、そのことから患者の推定的意思を導き出すことはできないとしているのです。

(6)患者の意思(推定意思)と家族の意思(希望又は要請)との相違

患者本人の嘱託又は承諾がないにもかかわらず、「家族の要請」だけで尊厳死や安楽死にあたる医療行為の中止や医療行為の実施を行ってはならないことは当然のことです。東海大病院事件横浜地裁判決も川崎協同病院事件横浜地裁判決も、このような「家族の要請」ないし「家族の意思」による尊厳死や安楽死を認めてはいません。あくまでも「患者の意思の推定」なのです。もし、これが許されるとなれば、つまり家族の要請で尊厳死や安楽死が許されるとすれば、患者は生きたいと希望しているのにその患者の意思を無視して家族の事情だけで死に追いやられることとなり、患者の人権は無視されることとなります。したがって、前記の「家族の意思表示から患者の意思を推定する」ということと「家族の要請を容れる(家族の要請に従う)」こととは、全く次元の異なるものであることを忘れてはなりません。しかし、その区別は簡単ではなく、医療の現場で安易に流れるおそれはないでしょうか。わが国の医療現場では、がん告知を含めて患者の医療についての意思決定を、患者本人の意思にではなく、「家族の代理的な意思」にゆだねる傾向があるように思われます。あくまでも「家族は患者本人ではない」という当然の原則を忘れてはなりません。このことが忘れ去られたところに、「家族の意思による患者本人の意思の推定」=「家族の要請」という極めて危険な事態が待っている、ということができます。
もっとも、家族等の存在を無視することはできず、家族等により患者本人の意思が推定できないとしても、その家族等の存在を前提とする対応が必要です。すなわち、家族等が本人の意思を推定できない場合に、「家族の要請を受け入れること」と、「本人にとって何が最善であるかについて、本人に代わる者として家族等と十分に話し合い、本人にとっての最善の方針をとること」(厚労省人生最終段階ガイドライン、3学会救急集中治療ガイドライン)とは別ものです。家族らが患者本人の意思を推定できないとしても、「家族らの要望・要請を受け入れる」という意味ではなく、家族らと十分に話し合って「患者にとっての最善の治療方針」を考えることは極めて重要なことであり、単に「家族らの意見に従う」、「家族らの要請に応じる」という短絡的な対応では、患者の自己決定権を尊重することにはならない、ということなのです。いずれにしても、ガイドライン等でいう「家族と十分に話し合あって患者にとって最善の治療方針を」というのは、あくまでも医療側の最善の治療方針を立てるために「家族と話し合うこと」を意味するのであり、単に「家族の意見に従うこと」「家族の要請に従うこと」とは意味が違うということを銘記しておくべきです。

(7)「疑わしきは生命の利益に」の論理

川崎協同病院事件横浜地裁判決では、「疑わしきは生命の利益に」(in dubio pro vita)という極めて重要な基本的視点が明らかにされています。すなわち、この原則は、生命の尊重及び平等性の保障を与えるものであり、「人工延命治療を最初から施さない場合、あるいは中止する場合、そこに合理的な疑念が存在する以上、生命に不利益に解釈してはならないこと」を意味します。具体的には、例えば、本人の意思を何ら確認することなく、医師が一方的に当該延命治療について「無意味」とか「無益」という価値判断を押し付けてはならないことを意味し、本判決では、「回復不能でその死期が切迫していることについては、医学的に行うべき治療や検査等を尽くし、他の医師の意見等も徴して確定的な診断がなされるべきであって、あくまでも『疑わしきは生命の利益に』という原則の下に慎重に判断が下されなければならない。」とか、「(患者の意思の推定等について)その探求にもかかわらず真意が不明であれば、『疑わしきは生命の利益に』医師は患者の生命保護を優先させ、医学的に最も適応した諸措置を継続すべきである。」などと判示しています。

もっとも、「疑わしきは生命の利益に」という考え方が、臨床の現場でどれくらい支持されているかは分かりません。むしろ、「患者にとっての最善の対応」は「疑わしきは生命の利益に」という考え方と衝突してしまうことも考えられます。最終的には、「患者本人にとって最善の対応」を採るということがどういうことなのか、「患者の生命を縮めてしまうこと」が許されるのか等、臨床現場では悩ましい事態に陥りそうです。