No.137/人生の最終段階における医療行為とインフォームド・コンセント(ガイドラインの重要性)(その7)

No.137/2023.8.1発行
弁護士 福﨑博孝

人生の最終段階における医療行為とインフォームド・コンセント(ガイドラインの重要性)(その7)
(第6 高齢者ケアの意思決定プロセスに関するガイドライン)
~人工的水分・栄養補給の導入を中心として~

第6 高齢者ケアの意思決定プロセスに関するガイドライン(人工的水分・栄養補給の導入を中心として)

(はじめに)

社団法人日本老年医学会は、平成24年6月27日、「高齢者ケアの意思決定プロセスに関するガイドライン(人工的水分・栄養補給の導入を中心として)」(以下「人工的水分・栄養補給ガイドライン」)を策定しています。すなわち、高齢者ケアの現場においては、関係者たちを悩ませる典型的な問題の一つに、何らかの理由で飲食できなくなった時に、人工的水分・栄養補給法(artificial hydration and nutrition 以下「AHN」と略する。【注41】)を導入するかどうか、それとも、それを減量又は中止するかどうかという点がありますが、そのような事態に医療者の指針とすべく策定されたものといえます。 認知症末期の患者へのAHNについて、多くの医療者が「導入しないことに倫理的な問題を感じ、また、導入することにも倫理的な問題を感じている」というような困惑を臨床現場にもたらしているようです。困惑の原因としては、医学的妥当性が明確でないという点も確かにありますが、むしろ、‟高齢者の最期の生がどうあるのがよいのか”について、例えば、‟長く生きられれば生きられるほうがよいと無条件に言えるのか”といったことについての共通理解が定まっていないという点が大きいように思われます。「そこで、このような状況において、現場の医療・介護・福祉従事者がAHN導入をめぐって適切な対応ができるように支援することを目的として、ここにガイドラインを策定する。」とされているのです。 そしてその上で、「本ガイドラインは、臨床現場において、医療・介護・福祉従事者たちが、高齢者ケアのプロセスにおいて、本人・家族とのコミュニケーションを通して、AHN導入をめぐる選択をしなければならない場合に、適切な意思決定プロセスをたどることができるように、ガイド(道案内)するものである。」とし、さらに、「AHN導入に関するガイドラインとしては、医学的妥当性を確保するためのものも考えられるが、ここで提示するのはそういう性格のものではなく、倫理的妥当性を確保するためのものである。そして、倫理的妥当性は、関係者が適切な意思決定プロセスをたどることによって確保される。加えて、適切な意思決定プロセスを経て決定・選択されたことについては、法的にも責を問われるべきではない。」とされています。

【注41】人工的水分・栄養補給法とは、経口による自然な摂取以外の仕方で水分・栄養を補給する方法の総称で、経腸栄養法(胃ろう栄養法、経鼻経管栄養法、間欠的口腔食道経管栄養法)、非経腸栄養法(中心静脈栄養法、末梢静脈栄養法、持続皮下注射)などがあります。(3頁)

(以上3~4頁)

【本ガイドラインの概要】

1.医療・介護における意思決定プロセス

ここでは、医療・介護において、どのようなケアをするかについて意思決定をする際のプロセスについて一般的な指針を示す。したがって、ここに提示することはAHN導入・減量と中止にも、高齢者ケアにも限定されず、汎用性があるが、これらを念頭においた記述を心がけてはいる。(6頁)

☆ 医療・介護・福祉従事者は、患者本人およびその家族(【注42】)や代理人(【注43】)とのコミュニケーションを通して、皆が共に納得する合意形成とそれに基づく選択・決定を目指す。

【注42】《解説2》「家族」とは、本人の人生と深く関わり、生活を共にするなど、支え合いつつ生きている人々を指すのであって、単に戸籍上のつながり、ないし血縁関係があるという形式上のことだけで決まるものではない。とはいえ、ここでいう家族以外の親族であっても、いずれ本人に代わって法的権利を行使する可能性がある立場であることもあり、また、現在は疎遠であっても、当人たちは深いつながりを感じているということもあるため、本人および家族との実際上の関係の深さ、および当人たちが意思決定プロセスにどれほど積極的に関わろうとしているかの程度に応じて、「家族」に準じて遇することが現実できである。(13頁)

【注43】《解説3》「代理人」は、本人が私的に指名した知人、法定後見人、任意後見人などを含む。ここでは、「本人に代わって選択する」という役割を期待しておらず、ただ本人の意思や本人の人生にとって何が益かといったことについての話し合いに参加していただくことを期待しているので、「法定後見人は医療上の決定についての権限はない」といった事情に触れるものではない。したがって、医療・療養上の決定についての付託を本人から(または制度的に)受けていない場合、参加しなければならないというわけではない。

1.1 医療・介護側の関係者は、医療・ケアチームとして対応し、チーム内の合意形成と、本人・家族との合意形成を併せ進める。患者の〈インフォームド・コンセント〉は、両者の合意において患者側がしていること、および、この合意に基づいて患者側が行う同意書への署名等の行為に該当する。

1.2 ある問題をめぐる意思決定プロセスは、その問題が起きることが予想された段階で、開始する。だが、直ちに本人・家族との話し合いを始めるとは限らない。本人・家族の気持ちや姿勢、また、将来どうするかについて予め意向を形成したほうがいいかどうかといったことに配慮する(【注44】)。

【注44】《解説7》たとえば、その段階で直ちに話を持ち出しても、本人・家族が考え難いと思われる場合、当初は医療・介護の専門家として、チーム内でプロセスの進め方について確認するにとどめておく。他方、本人の事前指示(AD)が望ましい場合や、今後の人生・生活の見通しを立てつつ、どのようなケアを受けたいかを本人・家族と話し合いながら考えていく(advance care planning)際にテーマとなるような問題であれば、早くから本人・家族との当該問題をめぐる話し合いを開始する。(13頁)

1.3 当該意思決定プロセスにおける家族の関与がどの程度必要であるかは、当の家族の当事者性の度合い(=その家族が本人の日常生活および療養生活にどの程度関わっているか、及び問題となっている選択がその家族の人生・生活にどの程度影響を及ぼすか)に相対的である。

1.4 患者本人は、合意を目指すコミュニケーションに、いつも自発的に理解し、選択する主体として参加できる(=意思確認ができる)とは限らない(【注45】)。 そこで:


(A)本人の意思確認ができる時

①本人を中心に話し合って、合意を目指す。

②家族の当事者性の程度に応じて、家族にも参加していただく。また、近い将来本人の意思確認ができなくなる事態が予想される場合はとくに、意思確認ができるうちから家族も参加していただき、本人の意思確認ができなくなった時のバトンタッチがスムースにできるようにする。

(B)本人の意思確認ができない時

③家族と共に、本人の意思と最善について検討し、家族の事情も考え併せながら、合意を目指す。

④本人の意思確認ができなくなっても、本人の対応する力に応じて、本人と話し合い、またその気持ちを大事にする。

【注45】《解説9》本ガイドライン(人工的水分・栄養補給ガイドライン)が提示する意思決定プロセスは、厚労省の「終末期医療の決定プロセスに関するガイドライン(2007年5月)の主張を、次の点で踏襲している。…これらは単に終末期医療にとどまらず、本人の生き方にかかわるような医療上の決定プロセスにも妥当する。本ガイドライン(人工的水分・栄養補給ガイドライン)は、上記ガイドラインの方向性をさらに推し進めるべく、若干の改訂(ないし、表現上の曖昧さに対しての推敲)を加えている。その一つがこの部分、すなわち、本人の意思確認ができるかどうかで、本人と話し合うか、家族と話し合うかを確然と区別するのではなく、両者が可能な限り一緒に意思決定プロセスのための話し合いの席につくようにした点である。(14頁)

1.5 本人の表明された意思ないし意思の推定のみに依拠する決定は危険である。そこで、これと本人にとっての最善(【注46】)についての判断との双方で、決定を支えるようにする(【注47】)。また、あくまでも本人にとっての最善を核としつつ、これに加えて、家族の負担や本人に対する思いなども考慮に入れる(【注48】)。

【注46】《解説12》‟何が最善“かは、本人の人生観・価値観によるが、だからといって単に本人独りで決めるというわけでもない。というのは、私たちの文化には、各自は相互に独立してばらばらに生きており、したがって何が良いかは当の本人が決めるという考え方と、皆が支え合って共に生きている、したがって何が良いかについての共通理解が成り立つという考え方とが併存しており、両者を適当なバランスをとって兼ね合わせることが倫理的適切さには不可欠だからである。ことに、本人についての選択であっても、それが家族等、周囲の人々の人生に影響を及ぼす場合、この点に配慮が必要である。(14頁)

【注47】《解説13》家族は一般に本人のことを良く知っており、本人の意思を代理するのに適していると考えられているが、実情は必ずしもそうではない。また、家族は必ずしも本人の意思と最善を重視するとは限らない。したがって、家族の発言だけで本人の意思や最善を即断せず、よく吟味しつつ慎重に対応する。(14~15頁)

【注48】《解説14》本人にとって最善と考えられる選択を現実的に実行するためには、家族に耐えられないような過重な負担がかからないように、社会的サポートの手配をするとか、本人のためを思って家族が熱心に介護をして、疲労困憊してしまうといったことにならないように気を付けるというように、医療・介護・福祉従事者は家族のよい人生にも配慮する。(15頁)

1.6 医療・ケアチームは、本人・家族との双方向のコミュニケーションを通じて、次の諸点を実行しつつ、合意を目指す。

①それぞれの持っている情報を関係者が共有する。

②本人の身体を診察して得られた情報と、医学的知見に基づく本人にとっての最善に関する一般的判断から出発して、本人側から得た本人の個別の事情(本人が人生をどう把握しているか)(【注49】)を考慮に入れた、本人の最善についての個別化した判断を形成する。

③本人・家族が、医療・介護側から得た情報を、自らの人生の事情と考え合わせ、必要な場合には自らの人生計画を書き直し、目下の問題に適切に対処するための、状況を分かったうえでの意向を形成できるように支援する。 ✳どのような意思決定プロセスを辿って決定に至ったかについては、記録を残しておくことも、医療・介護側として必要である。

【注49】《解説16》医療・ケアチームは、本人・家族の人生についての情報(人生計画、決定に際して本人たちが配慮している人生の事情、価値観など)を、目下の選択について本人・家族にとっての最善を考える上で必要な限りにおいて、得るよう努める。つまり、医療者側は、説明するだけではなく、傾聴する。(15頁)

1.7 医療・ケアチームは、合意形成のプロセスにおいて、選択しようとしている方針が、社会的視点でも適切であるかどうかをもチェックする(【注50】)。

【注50】《解説18》例えば、いくら本人・家族にとって最善の選択肢であっても、それが周囲の人々に社会通念上許容される程度を超えた害を与えるおそれがある場合、それを選ぶことは容認されないであろう。また、高齢者ケアにおいては特に、医療・介護を提供する社会的体制が、本人・家族の選択を本意でないものにすることがあるため、本人の生活の環境に配慮する必要があることも、ここでいう「社会的視点での適切さ」のチェックに該当する。受け入れてもらえる唯一見つかった介護施設が、「胃ろうにしないと受け入れない」あるいは「胃ろうにしたら受け入れない」という条件をつけているために、選択が制約されるといった問題がある。この問題を解消することは担当する医療・介護・福祉従事者たちの力を超えている場合が多いが、できるだけの努力はすることが望ましい。(15頁)

1.8 医療・ケアチームは、本人・家族にとって最善と思うところが明確であれば、それを勧めることは適切である。が、同時に、本人・家族は独立した存在であるのだから、それを押し付けてはならない(【注51】)。合意を目指して、ぎりぎりまでコミュニケーションを続ける努力をする。 また、本人・家族は理だけで動くのではなく、情も兼ね備えているのだから、その気持ちに寄り添う対応が望まれる(【注52】)。

【注51】《解説19》相手の最善を目指すことと、相手を自分たちの支配下にない独立した存在として尊重することと、双方の姿勢をもって対応する以上、相手にとってよかれと思うことを行いたいが、相手が嫌がっている場合など、ジレンマがしばしば起きる。医療ケアチームはジレンマを通常のことと受け止め、どちらを優先するという問題解決ではなく、両立できるように、粘り強いコミュニケーションが望まれる。(15頁)

【注52】《解説20》医療情報は理性的なものであり、説明もまた理性的な仕方で進められる。だが、本人・家族は単に理性的であるわけではなく、むしろ大いに情を備え、情によって左右される存在でもある。したがって、相手の自立を尊重しさえすれば良いわけではなく、相手の気持ち―悲しみやつらさ、希望を見出したいという思いなど―を受け容れ、ケア的姿勢で対応する。また、相手の意向は確定したものとは限らないため、継続的なコミュニケーションを保つ。(15~16頁)

1.9 低いレベルの医学的エビデンスしかない場合、医療・介護側は選択肢の医学的評価について、自分たちの判断がたとえ実際上標準的であっても、それをあたかも確実なものであるかのように本人・家族に提示しない。また高いレベルのエビデンスがある場合でも、それに基づく選択肢についての判断を本人・家族の人生の事情に優先するものとして押し付けない。

1.10 ぎりぎりまで解決できない場合は、次のような考え方で対応する。

①本人が嫌がる医療・介護行為を強行することはできない――ただし、そのことにより第三者に許容限度を超えた害がおよぶ怖れがある場合は別である(【注53】)。

②本人が希望する医療・介護行為であっても、医学的観点でも人生全体を評価する観点でも無益であると判断される場合、もしくは益をもたらす可能性もあるが、重大な害をもたらすことを余儀なくされるというリスクもある場合、相手の意向であるからといって応じなければならないわけではない。

③本人が希望する医療・介護行為であっても、それが本人に益とのバランスを欠いた害を与える行為である場合、ないし第三者に許容限度を超えた害を及ぼすおそれがある場合は、応じるべきではない。

✳これらの場合において、どの程度までなら「許容限度」内かは、文化に相対的である(社会通念が同じであるかによって決まる)。

【注53】《解説22》つまり、本人の意向を尊重するといっても、‟社会的視点”で不適切であるという判断に優先するわけではない。ただし、第三者に少しでも害になるなら、本人の意向といえども認めないというわけではない。…このように、第三者への害の可能性について、「許容限度」がある。また、この許容限度というのは、どこか一点で、放置と強制とが分かれているのではなく、段階的に、軽い注意喚起から、本人が嫌がっていても家族が同意すれば強制するという場合、さらには、社会的に強い強制力を発揮する場合などとなっている。(16頁)

1.11 合意を目指すコミュニケーションにより一旦は関係者の合意に達しても、本人・家族は迷いが生じて再度考え始めるといったことがある。また、合意に基づいて選択した方針を実行し始めてから、やはりそれは適切ではなかったのではないかと思い直すこともあろう。そうしたことを含め、本人・家族がよく考えて納得できる道を進むことが肝要であって、医療・介護・福祉従事者はそうした本人・家族の在り方を受け容れ、そうした揺れを当然のことと認めて対応し、フォローアップしていく(【注54】)。

【注54】《解説25》本人・家族が選択に関して揺れ動くことは当然のことである。最善を求めるからこそ、また、ある選択肢を選んだらどうなるのかは多かれ少なかれ不確実であるからこそ、選択が定まらないのである。…一定の決定をするに至ったとしても、それで終わりとは限らない。…医療・介護・福祉従事者は、本人・家族に一旦決めて始めたことを取りやめたり、変更したりすることがあってもおかしくないということを態度で示し、本人・家族が一旦達した決定に縛られないよう配慮する。(16頁) (以上6~8頁)

2.いのちについてどう考えるか

前項で提示した意思決定プロセスのあり方と並んで、医療・介護上の選択について重要なこととして、「いのちをどう考え・どう評価するか」という点がある。このことについて、医療・介護を公的な職業として行う場合には、共通理解を、医療・介護・福祉従事者の間で価値観を共有しておく必要がある。本章では、この点について一般的に示している。したがって、前章と同様、高齢者ケア、AHNの導入・撤退という場面に限定されないが、そういう場合を念頭においた説明になっている。(9頁)
☆ 生きていることは良いことであり、多くの場合本人の益になる―このように評価するのは、本人の人生をより豊かにし得る限り、生命はより長く続いたほうが良いからである(【注55】)。医療・介護・福祉従事者は、このような価値観に基づいて(【注56】)、個別事例ごとに、本人の人生をより豊かにすること、少なくともより悪くしないことを目指して、本人のQOL(【注57】)の保持・向上および生命維持のために、どのような介入をする、あるいはしないのがよいかを判断する。

【注55】《解説27》ここでは、‟生物学的生命自体の価値”と、‟物語れる人生の価値”と、どちらを評価の基準にすべきかを定義している。この限りでは、この定義は大方の人に共通の価値を示している。医学は生物学的視点で人の身体に注目して、その生命の状態を把握し、評価しているように見えるが、実はその価値評価は、人の一般的な人生(の物語り)のよさを基準にしているのである。ここで、ただ生物学的生命の存続自体に価値があるように誤解することが、しばしば、生死に関わる選択で誤る原因となっている。「身体的生命自体にかけがえのない価値がある(=どんなに厳しい状態であっても、生命を維持できる方法がある限りは、これを実行すべきだ)」と主張する場合も、多くは「どの程度の人生の可能性があれば、生命を維持した方がいいか」という程度について、より生命保存的な立場であるだけで、文字通り「身体的生命は不可侵だ」と考えているわけではない。(17頁)

【注56】《解説28》私たちの文化においては、「元気で長生きが良い」という言葉が示すように、「身体的生命は、本人の人生の物語りをより豊かにする限り、より長く続いたほうが良い」という価値観が社会通念となっている。しかしこの価値観と並行して、「どんな状態であっても生きていることに価値がある」という価値観もなお広く行きわたっており、両者は拮抗しているとみるべきであろう。例えば、最近では、緩和ケアの考え方の浸透とともに、がんの終末期などにおいては「徒な延命」をよしとしない価値観が市民権を得ているが、倫理現場によっては延命絶対視が根強いところもある。医療・介護は基本的に社会通念を引き受けてなされるべき活動であるが、こうした臨床現場の違いによる対応の違いなどについて、社会に対して問いかけ、提案する立場にある。医療・介護・福祉従事者はこうした場面で、自分たちの間で共通の価値観を持つべく合意形成に努め、それに基づいて活動するべきである。しかし、家族がそれぞれの価値観に基づいて生きることを容認することも、医療・介護・福祉従事者が持つべき共通の価値観には含まれている。(17頁)

【注57】《解説29》「本人の人生の物語りをより豊かにし得る」かどうかは、QOL(quality of life生の質)と余命の長さの双方の評価に関連する。このうち、QOLについて、評価尺度を設定して行うような場合は、一般に人はどのような状態であれば自らの生を肯定するかについての知見に基づいて評価されるが(例えば、いろいろなことができる状態であれば評価は高くなる)、個々人のQOLを個別に問題にする場合には、こうした客観的な評価にとどまらず、本人が自分の人生をどう把握し、どう評価するかという観点で評価される。(17~18頁)

2.1 ある医学的介入を行うならば、死を当面避けることができ、一定のQOLを保った生の保持ないし快復が可能となる場合は、一般的にはその医学的介入を行うことが本人の益になる(=人生をより豊かにする可能がある)。しかし、当の本人の場合に最善かどうかを判断するためには、個別の人生の事情(についての本人の理解)を考慮に入れて、個別化した評価を行う必要がある。

(A)本人の人生の事情を考慮しても、当該の医療的介入により、延命とQOLの向上・保持を図ることが本人にとって最善だと考えられる場合:

本人がその医学的介入を拒否していても、医療ケアチームはその医学的介入をしたほうがよいと考え続け、コミュニケーションを通じて本人との合意を目指す。それでも合意に達しない場合には、1.10の考え方にしたがった選択をする(【注58】)。

【注58】《解説30》本人の人生観等を聞いてみても、治療をした方がよいという医療ケアチームの判断は動かないが、本人はあくまで拒否しているといった場合がこれにあたる。(18頁)

(B)自らの人生についての本人の理解を考慮した場合には、その医学的介入を行うことは本人の人生にとって益になるとは言えない(あるいは、行わないほうが、本人の人生にとってより良いと見込まれる)場合(【注59】):

本人が自らの人生の理解に基づいて、その医学的介入を受けない意思を持続的・安定的に持ち続けており、周囲の人々への配慮や孤独感などの故に本意でないにもかかわらずそのような意思表明をしているわけではないことを慎重に確認した上で、その医学的介入をしないことを許容ないし同意する(【注60】)。

【注59】《解説31》高齢者以外の場合では、例えば、壮年期までの時期の人で、命にかかわる疾病が見つかったが、根治手術を選択すれば、高いQOLを伴う人生がまだまだ続く見込みがあるにもかかわらず、本人の宗教的信念の故に、現在行っている修行を中断することなく続けることが、たとえ治療の時期を延ばすことにより、手遅れになるとしても重要であると考えているというような場合がこれにあたる。(18頁)

【注60】《解説32》ことに高齢者は、本人の人生全体を眺める視点から見ると、仕上げの時期にあると見做されるので、一般的には有益とみられるような医学的介入を「もう十分生きたから、そのようなことまでしなくていい」などと意思表明することがある。「もう十分」が、本意である場合、それはその人なりの人生についての考えだと理解して、候補になっている医学的介入の内容とも相関するが、本人の意思に沿うことがあり得る。例えば、リスクの大きい、難しい手術をするというような場合、比較的に元気なお年寄りでも、「もうこの年になってそのようなことは避けたい」と言ったならば、周囲の者はそれをもっともなことと思えるだろう。が、それほど侵襲的でない場合は、「受けたくない」と言われても、周囲の者はにわかに納得しないだろう。(18頁)

2.2 ある医学的介入によって死を当面は避けることができるが、見込まれるQOLは、本人の人生をより豊かにするという結果をもたらすほどの効果があるかどうか疑わしい場合、ここでその医学的介入をするかどうかは、本人の人生全体についての本人および周囲の近しい人々による把握からして、どちらが本人にとってより益となるか(ないし害が少ないか)による(【注61】)。 このような時期には、多くの場合本人の苦痛を緩和し、快適に保つことを目的とした医学的介入をはじめとする全人的視野に立った《緩和ケア》の考え方が有効である。

【注61】《解説33》ここで、当人の人生についての本人の把握に並べて、「本人の周囲に近しい人々の把握」を挙げたのは、人生は、本人が(独りではなく)周囲の人々と共に創るいのちの物語りであるという理解による。つまり、医学的介入によって生命維持は可能であるが、それが本人の人生にとって良いかどうか疑わしい状況というものは、本人が相当衰えてきており、死が視野に入ってきている場合であることが多い。そして、本人単独ではこれからの人生のあり方を選べず、人々のネットワークに支えられて日々の具体的な生活が実現するという状況にあると思われる。そういう場合に、本人の人生の物語りはそういう人々のネットワークの中で創られていくのである。(18頁)

2.3 生命維持を目指す医学的介入をしても、ほとんど死を先送りする効果がない場合、また、たとえわずかに先送りしても、その間、本人の人生をより豊かにできず(よい日々だと言えず)、かえって辛い時期をもたらすだけだという場合には、《緩和ケア》のみを行う(【注62】)。このように、本人の予後を見通して、全体として延命がQOL保持と両立しない場合には、医学的介入は延命ではなくQOLを優先する。

【注62】《解説34》このような状況における、死を先送りしようとする医学的介入は、たとえわずかな延命効果があったとしても、本人を人間として苦しめること、弄ぶことであって、その尊厳に反している。…だが、医学的介入は死をしばらくの間先送りすることはできても、人としてのよい日々を保つ・回復することができなくなった場合、「死に向かうプロセス自体は何ら異常なことはない(=死を先延ばししようとする医学的介入の必要がない自然なこと)と見做す」というのである。この場合、医療者の役割はその経過を見守り、「延命のための介入の必要はありません」と素人である家族を安心させることであり、医学的介入は本人の苦痛の予防および緩和目的のものに限られる。「死はいかなる場合にも、ぎりぎりまで避けるべき悪である。」という思い込みから、医学の専門家も、素人の市民たちも解放させる必要がある。(18~19頁)

(以上9~10頁)

3.AHN導入に関する意思決定プロセスにおける留意点

高齢者ケアにおいて、本人の食が細くなった、嚥下機能の障害により経口摂取ができなくなった等の理由により、生命維持に必要な栄養補給ができなくなった場合に、‟人工的な水分・栄養補給法(=AHN)を導入するかどうか”、するとしたら、‟どの方法にするか”の選択に際しても、以上の意思決定プロセスについてのあり方およびいのちの評価ついての一般的指針が妥当する。以下は、AHN導入・減量と中止に関して特に留意する点を追記する。

☆ AHN導入および導入後の減量・中止についても、以上の意思決定プロセスおよびいのちの考え方についての指針を基本として考える。ことに次の諸点に配慮する。

①経口摂取の可能性を適切に評価し、AHN導入の必要性を確認する。

②AHN導入に関する諸選択肢(導入しないことも含む)を、本人の人生にとっての益と害という観点で評価し、目的を明確にしつつ、最善のものを目指す。

③本人の人生にとっての最善を達成するという観点で、家族の事情や生活環境についても配慮する。

3.1 AHN導入を検討する際には、まず、経口摂取による水分・栄養摂取の身体機能面での可能性とそれを可能にするケアの実施可能性を充分に検討し、追求した上で、導入を検討する必要性があることを確認する。その上で、意思決定プロセスにおいては、本人・家族がAHNを導入しないことを含め候補となる選択肢を示され、各選択肢が本人の生活にもたらす益と害について知らされ、理解した上で、本人の意思(推定を含め)と人生についての理解に照らして最善の道を考えられるようにする(【注63】)。

【注63】《解説35》…ここでは、AHN導入について、具体的に考える場合の意思決定プロセスの開始にあたって、まず留意すべきことを提示している。つまり、AHN導入の是非を検討する必要があることの医学的視点での確認と(従来、ここの確認が甘かったという意見あり)、本人・家族への情報提供の仕方(「胃ろうをしましょう」「胃ろうにしますか、どうしますか」ではなく、いろいろな可能性と、医学的な視点での説明に終わらず、本人場合、各選択肢を選んだ場合、その生活がどうかるのかといった人生の観点での説明をすること)についてである。(19頁)

3.2 AHN導入をめぐって候補となっている選択肢が、当該事例に関して何を目指すものか―

①生命維持により、本人のよい人生が当面続くことを目指す(【注64】)。

②本人が残された時間をできるだけ快適に過ごせることを目指す(【注65】)。 ―を明確にし、選択にあたっては、本人が残りの人生をどのように生きることが望ましいかという観点で、‟何を目指すか”と‟AHNのどの選択肢か”とを組にして考える。
なお、AHN導入が①と②のいずれをも達成する見込みがない場合には、AHNはかえって本人にとって害となり、人生の最期を歪めることになる(【注66】)。

【注64】《解説36》AHNの中でも、栄養状態の維持ひいては生命維持を目的とする人工的栄養補給法導入にあたっては、当該ケースにおいて‟延命効果が期待できるというだけで本人にとって益になる”と判断するのではなく、‟生命が維持された場合に本人の人生(の物語り)をより豊かにするかどうか”によって益になるかどうかを判断する。栄養状態の維持が本人の益になると判断され場合、人工的栄養補給の候補となる各方途の益と害のアセスメントに基づき、最適の方途を選択する。(19頁)

【注65】《解説37》AHNの諸選択肢中、人工的水分補給法(若干の栄養補給を伴う)は、主として、本人の苦痛を避けるという快適さを目的とする方途である。だが、現時点では、家族や医療チームの心理的負担を軽減することを主目的にすることも本人への害を最小限にする努力が伴う限りにおいて許容され得る。(19頁)

【注66】《解説38》AHNが本人の益にならない(生命維持の効果がない場合だけでなく、生命維持はできても苦痛を与えるだけの場合や、本人の人生の物語りにとって益とならない場合も含む)と判断される場合、導入しない。(19頁)

(A)あるAHNを導入すればそれなりのQOLを伴う延命が見込まれる場合、①と②が両立するので、一般的には導入が適当であると考えられるが、本人の人生にとって最善かどうかを個別に確認する(【注67】)。その結果、本人が人生をどう理解し、かつAHNについてどういう意思をもっているかによっては、AHNをしない方がよいと見做されることもあり得る(【注68】)。

【注67】《解説39》AHNを導入することによって、栄養状態が改善された結果、身体の状態の改善によって本人の苦痛を和らげ、あるいは本人の残存能力を改善し、よりよい生活が実現する見込みがある場合、かつ家族も本人の人生もう少し延びることが本人の人生にとってよいと考えている場合、AHN導入が適当と考えられよう。(19頁)

【注68】《解説40》人工的栄養補給をすればまだそれなりのよい人生が可能であろうと見込まれるが、本人が「食べられなくなったら、人生は終わり。私はもう十分生きてきたからこれでいい」として、AHNを選ぼうとしないケースが時にある。このような場合、本人の人生についての理解や見通しをよく聴いて、それが理に適っている場合はそれに合わせる選択も認められる。なお、高齢を理由にして、治療を避けようとする場合、それが本意ではなく、裏に周囲の都合(介護負担が面倒だというような)への遠慮が隠れている場合があるので、注意が必要である。 また、苦痛なく、次第に衰えて現在に至っており、食べたり飲んだりできなくなってきていることに本人がとくに不満を持っていないようにみえる場合、死へのノーマルなプロセスを辿っていると見做すことができよう。加えて、そのように家族も見ているならば、AHNを行わないことは、人生の最期を自然に送るために有益であると、通常見做される。この時、医学的にはAHNを導入すればさらなる延命が可能だと見込まれるとしても、導入しないことは適切な選択である。 なお、AHNを導入しないで、「自然にゆだねる」場合、本人にとって快適さや満足をもたらす限りにおいて、ごく少量の水分・食物を経口で摂るように工夫する。AHNを導入する他の選択肢の場合にも、AHNの形態から可能である場合は、嚥下が可能な限りにおいて経口摂取を併用することは、とくにそれを妨げる医学的な理由がない限り、本人にとって好ましいことである。(19~20頁)

(B)あるAHNを導入すれば延命効果は見込まれるが、本人のよい人生を支え得るほどのQOLを回復ないし保持できるかどうか(すなわち①の達成は)疑わしい場合、現在本人が辿っている人生の終わりの時期を本人や家族がどう理解するかに応じて、本人の人生にとって何が最善か(何を目指し、どれを選ぶか)を判断する(【注69】)。

【注69】《解説41》…本人の人生全体をふりかえり、現在の状況をどう位置付けるかを、医療・介護・福祉従事者と家族で考える。…しかし、親しい者の一方的で勝手な思い、勝手な物語りを本人に押し付けて、本人らしくない日々を強要する結果となることもあるため、医療・介護・福祉従事者は家族と進める意思決定プロセスにおいて、そうしたことにならないよう、本人の人生という観点でみた、本人の利益を常に念頭におく必要がある。また、こうした場合に、選択に正解というものはないということにも留意する。(20頁)
(C)医学的に言って、AHNに延命効果があるとは言えない場合、ないしは疑わしく、効果があったとしても本人の人生にとって益となるとは言えない(=①の達成はできない)場合、本人ができるだけ快適に過ごすこと(=②)を目指すことが通常妥当であろう。だが、こういう場合においても、本人の人生に注目して、どうするのが最善かを、家族など周辺の近しい人々との話し合いを通じて確認しつつ、ケアが目指すところを選ぶ(【注70】)。

【注70】《解説42》この時期には、AHNの諸方法のうち、栄養状態維持を目指す選択肢は不適切であっても、脱水症状を避ける目的の水分補給なら適切であるという場合もあり、また人工的水分補給も本人には不要で、かえって負担となると判断される場合もあろう。(20頁)

3.3 AHN導入後も、継続的にその効果と本人の人生にとっての益を評価し、

(A)経口摂取が可能となったので、AHN離脱可能である場合

または、

(B)全身状態の悪化により延命効果が見込まれない、ないしは必要なQOLが保てなくなるほどの理由で、本人にとって益とならなくなった場合、益となるかどうか疑わしくなった場合、

AHNの中止ないし減量を検討し、それが従来のやり方を継続するよりも本人の人生にとってより益となる(ましである)と見込まれる場合は、中止ないし減量を選択する(【注71】)。本人・家族から中止等の申し出があった時にも、本人の意思(の推定)と人生にとっての益という観点で判断する。いずれにしても、本ガイドライン(人工的水分・栄養補給ガイドライン)が推奨する意思決定プロセスをたどって選択を行うことはもちろんである。

【注71】《解説43》AHNを導入している場合でも、継続的に、今後どのようにするのが本人の人生の物語りにとって最善かを考える。その結果が、栄養・水分の投与量を減量する、あるいは投与を中止したほうが、本人が楽になるとか、やり続けてももはや益をもたらさないと評価される場合は、減量ないし中止する。この際の本人にとっての最善の判断は、導入について検討する際の3.2(A)~(C)の考え方に準拠して行う。したがって、ここでは、「今の本人の状況で(まだAHNを初めてないとしたならば)始めないことが最善であるのなら、(AHNを既に行っている場合でも)中止することが最善である」という考え方が成り立つ。 本人の状態を見ながら、それに応じて水分・栄養の投与を加減することは、医学の専門家として当然の裁量である。投与量を0にすることも、その裁量の範囲内であって、医療ケアチームとしての判断をし、かつ本人・家族(こういう場合は、本人は判断ができなくなっていることが大半であるが)との合意の上で決めるというプロセスをたどっていれば、法的に問題になるわけがない(緩和医療学会の終末期の輸液についてのガイドラインは、このような考え方である)。 家族からの中止等の申し出があった場合も、導入に際して検討する際の3.2と同様に考える。家族の都合ではなく、本人のよい人生についての家族の思いが適切であると認められる場合は、受け入れる方向で検討する。(20~21頁)

3.4 AHN導入をめぐる意思決定プロセスにおいて、家族の気持ち・都合や、居宅介護の条件、入居先の介護施設の方針といった環境の故に、選択が左右されることがしばしばある。現在の環境の許容範囲内でできるかぎり本人の最善を目指し、また家族の負担を許容できる程度に抑える道を探す努力をする(【注72】)。

【注72】《解説44》AHN導入の是非は、家族の本人に対する思いに相関的なところが確かにある。だが、家族は必ずしも本人の人生にとって益となるかという観点で判断しているとは限らない。介護に疲れ、早く終わらせたいと考える場合もあり、逆に、本人が生きていることによる経済的利得(年金など)のために、できるだけ死を先延ばしにしたいと考えることもある。確かに、本人にとっての益だけを考えるのではなく、家族の益や負担も考えるべきではあるが(介護負担が家族を疲弊させている場合は、社会資源の活用などその負担を軽減する方途を考える)、家族の都合によって本人の生を延ばすかどうかを決まるのは不適切であり、家族都合でAHN導入如何が左右されないように、配慮する。 年金収入などの益が家族をして本人の延命を望ませている場合にもいくつかの場合を区別する必要がある。親の介護をするために仕事を続けられなくなった場合、親の年金収入で、家族ともども生活しているが、親の死後、職から離れた家族がふたたび社会の中で収入の道を見出すのは難しい。社会的サポートが必要である。他方、介護施設に親を全面的に預けている場合、年金から介護費用を支払った残りを、子が勝手に使うということがままある。それはそもそも年金の目的からして不適切な使用というべきであろう。 入居中、入居予定、あるいは入居先の候補となっている介護施設が、AHNを導入しているかどうか、また、どういう種類のAHNかといったことを入居の条件にしていることがある。こうしたことは、ケア従事者の配慮といった管理上・経営上の都合によることが多いが、本来適切なことではない。(21~22頁)

(以上11~12頁)