No.88/人生最終段階(終末期)における医療と患者・家族(その5)

No.88/2022.6.15発行
弁護士 福﨑博孝

人生最終段階(終末期)における医療と患者・家族(その5)
(4.具体的な症例の検討(事案の検討) 事例①)

4.具体的な症例の検討(事案の検討)

(はじめに)

医療倫理の問題については、その具体的な症例において「正解」を見つけることは容易ではありません。しかしそれでも、倫理的な誤りを犯すわけにはいかないのです。様々な倫理的課題を検討し、各種ガイドラインなどの資料を参考にして、医療者としての精一杯の「倫理観(倫理感)」と「社会常識」を働かせる必要があります。かと言って、医療倫理には特殊な専門的知識や考え方が必要というわけではありません。‟一般的な倫理観(倫理感)”と‟社会常識”を基盤とする医療対応についての考え方と、ガイドラインレベルの知識があれば、医療倫理を踏み外すことはほとんどないと思っています。いずれにしても、医療者は、普段から人の生命に対する‟倫理的な思考”を心掛ける必要があることだけは確かのようです。それをしておかないと、いざという時に、まともな倫理的な判断ができないということにもなりかねません。 わたしは先般、ある病院から研修の依頼を受け、症例(事例)を与えられその意見を聞かれました。その全てが難しくそう簡単には回答が出せなかったのですが、一応の【わたしの考え】ということであればお応えできるのではないか、と思いました。以上のような立場に立って、本症例(事例)について、【わたしの考え】としてその見解を明らかにさせていただきます。

(1)事例①

患者Aさんは50歳代後半、その母親Bさんは80歳代後半、2人暮らしの母子です(なお、東京には患者Aさんの兄Cさんがおられますが、長崎から遠く離れており、患者Aさんのことにはほとんど関わっておられません。)。患者Aさんは糖尿病であり、また、他の病院でも血液透析中です。患者Aさんは病識に乏しく、また、母親Bさんは認知症が認められるようになっており、今後の治療方針に対する意思決定が困難となることが予想できます。 患者Aさんは、以前も血糖管理目的で入院されたことがありますが、コンビニで弁当を買ったり、お菓子を買ったりして指示・指導に従わない行動が多くみられました。さらには、患者Aさんは、自宅での血糖測定・インスリンの自己投与・服薬などもその管理ができていないようで、患者Aさんの身の回りの世話をしていた母親Bさんの認知機能の低下も進み、物忘れがひどく、身の回りの世話をすることに支障が生ずるようになってきています。食事については、以前は母親Bさんが作っていたが、近時では弁当をコンビニで購入していることが多いようです。 担当のケアマネージャーが、この状況を改善しようと患者Aと母親Bを指導しているのですが、食事・投薬などの自己管理、自宅の保清などが十分にできません。しかし患者Aさん本人は、「これらの自己管理はできている」と言い張り、母親Bさんは、認知機能低下のため指導内容の理解ができず、その対応が非常に難しい状況にあります。訪問看護師の要請などを促すのですが、それも拒否しておられます。 このような事例において、当院は、患者Aさんを血糖管理目的で入院させる予定なのですが、どのように対処すればよいでしょうか。

【わたしの考え】

1.患者家族の行為が法的に(刑事法的に、民事法的に)違法でなければ、すなわち法規範に違反していなければ、それを強制的又は半強制的に是正させることはできません。つまり、規範とは「・・・すべきである」、「・・・してはならない」という命題ということになりますが、それが刑事的・民事的な法規範であれば強制的又は半強制的に患者家族に対してその是正を求めることができます。しかし、単に倫理的・道徳的な‟社会規範”に違反するだけであれば、口で是正を求めることができたとしても、それ以上のことはできないのです。その意味では、本件事例において、当該患者に強制的又は半強制的な対応は困難な場合が多いと思われます。

2.しかし、「契約規範」(医療側と患者側との間の約束事)に違反するというのであれば、‟契約違反に対する対応”をとることが不可能ではありません(契約規範は法規範の一つと考えていいと思います。)。現場の医療者は普段はあまり感じたり考えたりはしておられないかもしれませんが、医療機関と患者との間には‟診療契約”が締結されています。診療契約は双務契約(当事者双方が債務を負担する契約)といわれ、医療者側に「最善の医療を施す義務」が課されるその一方で、患者側に対しても(治療代等の支払義務のほかに)「診療協力義務」が課されることになります。 医療行為とは、治癒という目的に向けて医療者側と患者側が協力し合う過程であって、医療者側は‟患者側の積極的な協力を得なければ“最善の医療を施すことなどできません。したがって、医療者側と患者側との間には信頼関係に基づく協働関係が必要不可欠であって、医療側が患者に対し最善の医療を施す義務があるとともに、患者側にも、「医療者側に積極的に協力すべき信義則上の義務(診療協力義務)」があるということになります。

3.そして、ここにいう「患者側」とは、患者本人のみを指すのではなく、患者の家族などの‟診療契約上の患者の診療協力義務を補完し又は支援すべき立場にある者”も含まれます。当該患者のキーパーソンたる家族だけではなく、その他の家族であっても、①当該患者の医療者に対する診療協力義務を補完又は支援するどころか、その非協力を助長又は増長させている場合、あるいは、②当該診療を妨害又は阻害している場合等には、当該患者が‟診療契約上の診療協力義務違反”に問われることがあるとともに、当該家族も‟患者の診療協力義務を補完し又は支援すべき一般的な注意義務”に違反したものとして、診療協力義務違反(それに基づく損害賠償請求)が認められることがあるのです。

4.そして、その診療協力義務を患者側が果たさない時には、場合によっては、その診療を拒否することも可能な場合があります。すなわち、患者家族が診療に協力的ではなく、適切な診療に支障が生ずるようであれば、「診療を拒否することによって当該患者の健康を害し、又は生命にも影響を与える」等という特別な事情がない限り、責任をもった診療ができないという理由で診療を拒否すること(契約を解除すること)が可能となる場合もあるのです。もっとも、それが正しいことかどうかは微妙な倫理的判断が必要になりますが、医療者側の精一杯の「患者側との協議」や「患者側に対する説得」がなされても、当該患者側の非協力の対応が変わらなければ診療を拒否することもあり得るかもしれません。 もっとも、そのことを濫用することは許されませんが、当該患者に医療側の求めを守ってもらうために、いい意味での「脅し」に使うことは考えてもいいかもしれません。医師・看護師が患者として取るべき行動を説明し、どれだけ説得してもそれを守ってくれないときには、病院としても診療をお断りすることがあることを明らかにする必要がある場合もあるはずです。 いずれにしても、本事例は、医療側の対応に限界がありますが、粘り強く説得を重ねる必要があると思います。

5.ところで、この患者Aさんには兵庫県に兄Cさんがおられるようです。同居している母親Bさんがおられることから、患者Aさんのキーパンソンを母親Bさんに固定してしまうこともありそうですが、母親が認知症などになってしまわれた時にその対応が困難になってしまいます。このような場合には、母親Bさんが元気な時からBさんと共に、又は、状況によってはBさんに代わって兄Cさんにキーパーソンになってもらう努力をしておく方がいいと思われます。確かに、兵庫県は遠すぎますから、兄Cさんに頻繁に長崎に来てもらう等ということはできませんが、電話などで可能な限り連絡をとり、兄Cさんに患者Aさんの病状と言動などの情報を報告しその是正の協力をいただいておいた方がいいと思われます。このように常時遠くの身内にも情報提供することによって、余計なトラブルを避けることもできるはずです。要するに、病院側がキーパーソンのみに気がいってしまい、遠くの身内に情報提供をしないことは後々の病院側の対応に疑問をもたれる原因になります。