No.77/医療保険制度と医療水準(仙台地裁平成11年9月27日判決)

No.77/2022.4.1発行

弁護士 永岡 亜也子


医療保険制度と医療水準(仙台地裁平成11年9月27日判決)

今回は、医療保険制度と医療水準との関係性について触れている裁判例をご紹介したいと思います。 患者Xは、Y1病院で胃及び脾臓の全摘手術を受けた後、栄養を経口摂取できない状態の中で、ビタミン剤を一切添加せずに高カロリー輸液を施行された結果、ビタミンB1欠乏に陥り、ウェルニッケ脳症を発症しました。 その損害賠償請求訴訟の中で、Y1病院は、平成4年4月に厚生省が発出した通達(「平成4年通達」)において、「給食料を算定している患者に対して、ビタミン剤の注射を行った場合の当該ビタミン剤については、別に厚生大臣が定める場合を除き算定しない」と定められていることを摘示して、臨床医学の現場では、平成4年通達により、ビタミン剤の使用が事実上制限されたに等しく、ビタミン剤を添加せずに高カロリー輸液を施行したことは不可抗力であったと主張しました。 というのも、平成4年通達後、Y1病院にとどまらず、他の病院でも同種事例が頻発していたようで、平成4年通達により、医療現場には少なからず混乱が生じていたようです。 しかしながら、裁判所は、後記2.記載のとおり、「医療保険制度の内容は、医療水準の内容等の判断に直接の影響を与えるものではない」との考え方に立って、上述のY1病院の主張を認めませんでした。

1.事案の概要

患者Xは、平成4年4月初旬ころより胃の痛みを訴え、6月19日に胃の透視検査を受けたところ影が発見されたため、Y1病院を紹介されました。Y1病院で胃の内視鏡検査を受けると、胃に大きな潰瘍が発見されました。そこで、Y1病院のY2医師らの勧めにより、患者Xは6月29日にY1病院内科に入院しました。入院後の検査により胃の部分に癌が発見された患者Xは、7月7日に手術目的でY1病院外科に転科し、7月14日に胃及び脾臓の全摘手術を受けました。 Y2医師らは、本件手術の前日以降、患者Xに各種ビタミンを一切含まない高カロリー輸液又は糖質輸液を施行しました。7月20日以降、徐々に飲食が許可されるようになったものの、7月22日以降、患者Xが腹部痛を訴えて嘔吐や下痢を繰り返したため、腸閉塞の疑いで7月27日昼から再び禁飲食となりました。8月3日以降、再び飲食が少しずつ許可されるようになり、8月19日には高カロリー輸液用カテーテルも抜去されましたが、患者Xの嘔吐の症状はほぼ毎日のように続いていました。 患者Xは、8月10日ころより、約50cm以上離れると視点が合わず吐き気がするなどとして複視を訴え始めました。8月17日にMRI検査が施行された結果、外転神経麻痺、中脳障害、胃の悪性リンパ腫の脳転移及び脳梗塞が疑われました。8月18日ころからは、物忘れが激しく、夢と現実が混ざってよく分からないなどと訴えるようになり、8月19日には時間の感覚や前夜の記憶がないなどの意識障害が現れるようになりました。8月21日には意識に変化を生じ、突然錯乱状態を来たしたため、他院の神経内科専門の医師の診断を仰いだところ、悪性リンパ腫に由来する脳底髄膜炎の可能性を指摘されたことから、精密検査のため、8月25日に大学病院に転院となりました。 大学病院では、まず胃の悪性リンパ腫に由来する癌性髄膜炎が疑われましたが、髄液に異常が認められなかったことから、次にビタミンB1欠乏が疑われ、その後の検査等の結果、ビタミンB1欠乏によるウェルニッケ脳症の診断がなされました。患者Xの症状のうち意識障害をはじめとするいくつかについては、大学病院におけるビタミンB1の投与により改善しましたが、その後も、新たな記憶の蓄積ができない近時記憶障害、右眼における上方向への眼振を伴った垂直方向での眼球運動障害、方向転換や直線状を真っ直ぐに歩けないなどの失調性歩行、下肢のしびれを主とする末梢神経障害が残りました。そこで、患者Xは、患者Xがビタミン剤を添加すべき状態にあったにもかかわらず、Y2医師らがこれを怠ったがために、患者XがビタミンB1欠乏状態となりウェルニッケ脳症の発症に至ったこと、その結果、患者Xに上記各障害が残ったことを主張して、Y1病院及びY2医師に対して、その損害賠償を求める訴訟を提起しました。

2.裁判所の判断(仙台地裁平成11年9月27日判決)

裁判所は、「患者Xに発症したウェルニッケ脳症の原因はビタミンB1の欠乏であったことが認められる。」、「本件手術直後の患者Xに対し高カロリー輸液を行えばビタミンB1が欠乏する状態に在ったのであるから、このような患者Xに対し、高カロリー輸液を行うに当たって、ウェルニッケ脳症の発症を予見することなく高カロリー輸液中にビタミンB1を投与しなかったYらには、右注意義務違反が認められる。」、「Yらは、平成4年通達により、ビタミン剤の使用は事実上制限されたに等しく、患者Xが入院した平成4年6月当時、Y2医師が高カロリー輸液にビタミンB1を添加しなかったことは不可抗力であったと主張する。しかし、厚生省による社会保険・老人保健診療報酬点数表の規定は、健康保険医療の対象となる範囲を定めるにすぎず、治療方法に関する医師の専門的判断を拘束するものではない。特定の治療方法を健康保険の対象から外すことによって、医師が選択できる治療方法が事実上制限されることのあることは否定できないにしても、このことが直ちに医師の患者に対する法律上の注意義務を軽減し、または免除する根拠となるわけではない。」などと判示して、Yらの主張を排斥して、患者Xの請求を認めました。

3.まとめ

医療保険制度の内容により、医師が選択できる治療方法が事実上制限される可能性があることは、裁判所も認めています。しかしながら、そのことは、医師が患者にとって必要な治療を行わないことの理由にはなりません。 なお、精神疾患で入院治療中の者が自殺したことにつき、病院の責任が争われた事例でも、医療保険制度について触れられています。広島高裁平成4年3月26日判決は、患者の病状がかなり回復しており、精神医学的なリハビリテーション治療が必要な状態に至っていたにもかかわらず、病院がこれをせずに患者の入院を継続したことにつき、病院に診療契約違反や過失があった旨の主張について、「かかる開放治療体制を整えたり、リハビリテーション治療を施すためには、我が国の医療保険制度の下における診療報酬が、かかる開放治療体制を前提として設定されていないため、病院の採算面からの制約を被るのみならず、かかる治療体制をとるためには、病院外の援助システムが整備されていることが必須の前提条件であるところ、我が国においてはかかる援助システムが機能しているというには程遠い現状にあるから、かかる先進的な医療体制の採用は理想ではあるが、現実には平均的な私立精神病院にとっては極めて困難な課題であることが認められる」と判示して、病院の責任を否定する方向での判断要素の一つとして、医療保険制度の内容を摘示しています。 しかしながら、上記広島高裁判決も、医療保険制度の内容のみを根拠に病院の責任を否定しているわけではなく、「医療保険制度の内容が直ちに医療水準の範囲・内容を画する」との考え方に立つものではありません。 医療保険制度の内容が、病院にとって非常に重要なものではあることは言うまでもありませんが、医師は、医療保険制度の内容にかかわらず、患者にとって必要な治療は何か、という観点を第一に、治療の要否・範囲についての判断を行う必要があります。