No.47/医療訴訟における「相当程度の可能性」と「適切な治療を受ける期待権」(その1)

No.47/2021.8.2発行
弁護士 福﨑 龍馬

1.医療訴訟における因果関係とは

医療に際して、医療従事者が民事上の賠償責任を負う場合というのは、①医療行為に過失があったこと(医療水準に満たない医療行為が行われたこと)、②医療行為によって患者に死亡・後遺症等の悪い結果が発生したこと、③①と②との間に因果関係があること、の3つの要件が満たされることが原則として必要であり、また、この3つの要件は、患者側において立証する必要があります。そして、③の因果関係について最高裁は、「訴訟上の因果関係の立証は、一点の疑義も許されない自然科学的証明ではなく、経験則に照らして全証拠を総合検討し、特定の事実が特定の結果発生を招来した関係を是認し得る高度の蓋然性を証明することであり、その判定は、通常人が疑いを差し挟まない程度に真実性の確信を持ち得るものであることを必要とし、かつ、それで足りる」(最高裁昭和50年10月24日判決。以下「昭和50年最判」といいます。)としています。すなわち、患者側は、医療過誤がなければ、生存し得た(または後遺症が残らなかった)ことを、高度な確実性(法的には「蓋然性」といいます。)をもって証明する必要がある、ということになります。 医療の知識を有しない、患者の遺族側にとって、因果関係(高度な蓋然性)の立証は容易ではありません。(1)患者側において、医療過誤がなければ、患者が(当該死亡した時点において)生存し得た高度な蓋然性を立証できなかった場合、一律に、患者側の訴えを棄却してしまってよいのか、(2)「高度な蓋然性」までは認められないが、「生存し得た可能性が相当程度ある場合」にまで、患者遺族の請求を一律に否定してしまってよいのか等とうい問題意識から、本原稿のタイトルである「相当程度の可能性」や「適切な治療を受ける期待権」に関する理論が裁判において議論されています。今回は、「相当程度の可能性」と「適切な治療を受ける期待権」の理論を2回に分けて説明したいと思います。医療の現場で、直接この問題に関わることは多くないかもしれませんが、もし万が一、医療訴訟に出くわしてしまった場合に、「裁判では因果関係論についてどのような考え方がなされているのか」という観点から本原稿をお読みいただければ幸いです。

2.相当程度の可能性について

(1)相当程度の可能性とは

相当程度の可能性の理論とは、医療上の過失行為がなければ患者が死亡しなかったことが、高度の蓋然性をもって認められない場合であっても(すなわち、上記③の因果関係が認められない場合であっても)なお、医師による過失行為がなければ生存できた相当程度の可能性があることが証明できた場合には、医師に何らかの責任を発生させていいのではないか、という考え方です。この相当程度の可能性について判断をしたのが下記の最高裁判決です。

(2)最高裁平成12年9月22日判決(平成12年最判)

患者Aは、自宅において狭心症発作に見舞われ、病院への往路で自動車運転中に再度の発作に見舞われ、夜間救急外来を受診しました。Aは上背部(中央部分)痛および心か部痛を主訴とし、触診所見は心か部に圧痛が認められたものの、心雑音、不整脈等の異常は認められませんでした。B病院のC医師は症状の発現部位および経過等から第1次的に急性すい炎、第2次的に狭心症を疑いました。C医師は看護婦に鎮痛剤の筋肉内注射を指示し、Aを外来診察室の向かいの部屋に移動させた上で、看護婦に急性すい炎に対する薬を加えた点滴を静注させました。Aは点滴中に突然痛みを訴えて身体をよじらせ、大きくけいれんした後、すぐにいびきをかき、深い眠りについているような状態となりました。その後、蘇生術を試みたが、結局Aは死亡し、Aの死因は不安定型狭心症から切迫性急性心筋こうそくに至り心不全を来したと解されました。

ア  医療水準について(過失の有無)の判断

この事案において、裁判所は医療水準について、Aのような自覚症状のある患者に対する医療行為は、本件診療当時の医療水準に照らすと、胸部疾患の既往症を聞き出し、血圧、脈拍、体温等の測定や心電図検査、ニトログリセリンの舌下投与等を行うべきであった義務があったと述べ、それにもかかわらず、「C医師は、Aを診察するに当たり、触診および聴診を行っただけで、胸部疾患の既往症を聞き出したり、血圧、脈拍、体温等の測定や心電図検査を行うこともせず、狭心症の疑いを持ちながらニトログリセリンの舌下投与もしていないなど、胸部疾患の可能性のある患者に対する初期治療として行うべき基本的義務を果たしていなかった。」と述べて、医療水準に満たない治療行為であったと判断しました。

イ  因果関係についての判断

一方で、因果関係については、「C医師がAに対して適切な医療を行った場合には、Aを救命し得たであろう高度の蓋然性までは認めることはできないが、これを救命できた可能性はあった。」としました。同裁判での鑑定人の意見では「適切な治療を講じていたとしても救命できた可能性は20%以下である。」と述べていたそうです。救命可能性が20%以下なのですから、高度な蓋然性は当然認められず、上記昭和50年最判に照らせば、医療行為と患者の死亡との間に因果関係が認められないため、本来であればC医師に医療上の過失があったとしても、何らの民事上の賠償責任を負わないはずです。しかし、最高裁はそのような判断はしませんでした。すなわち平成12年最判は「疾病のため死亡した患者の診療に当たった医師の医療行為が、その過失により、当時の医療水準にかなったものでなかった場合において、右医療行為と患者の死亡との間の因果関係の存在は証明されないけれども、医療水準にかなった医療が行われていたならば患者がその死亡の時点においてなお生存していた相当程度の可能性の存在が証明されるときは、医師は、患者に対し、不法行為による損害を賠償する責任を負うものと解するのが相当である。けだし、生命を維持することは人にとって最も基本的な利益であって、右の可能性は法によって保護されるべき利益であり、医師が過失により医療水準にかなった医療を行わないことによって患者の法益が侵害されたものということができるからである。」と述べて、高度の蓋然性が認められない場合においても、医師に一定程度の責任を認めたのです。

(3)平成12年最判の考え方

本来であれば、医療行為と死亡との間に高度の蓋然性がない以上、因果関係が認められず、医師に法的責任も発生しないはずです。しかし、平成12年最判は、「生存し得た相当程度の可能性」自体が法律上保護すべき利益であると捉えなおし、「医療上の過失」によって、患者の「生存し得た相当程度の可能性」という利益を侵害したものとして、医師の責任を認めたものと理解されています。法律家でない方には、あまりしっくりこない話かもしれませんが、‟どのような利益を法的に保護するのか˝という具体的な線引きは、裁判例において「この利益は保護すべきだ!!」という判断が下され、その判断が集積されていくことによって、‟何が法的に保護されるのか、保護されないのか˝が決まっていくことがよくあります。本件では、医療訴訟で通常問題となる、「生命」や「健康」という利益だけでなく、「生存し得た相当程度の可能性」という利益も法的に保護すべきであり、これを医療上の過失によって侵害した場合には、法的責任が発生する、というように最高裁が判断したものと考えられるのです。

(4)具体的な可能性の程度

具体的に、「何%の確率で生存し得た」ということが立証できれば、「生存し得た相当程度の可能性」があったとできるかは、数字で示すことは難しいですが、12年最判では、「確率は20%以下ではあるが救命できた可能性がある」との鑑定意見が出されていた事案において「生存し得た相当程度の可能性」があると判断しています。したがって、「生存し得た相当程度の可能性」というのは、20%程度の生存可能性があったと判断できる場合には認められる可能性が高そうです。