No.120/‟判断能力・同意能力のない患者”についての医療行為の決定プロセス(その2)
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No.120/2021.2.15発行
弁護士 福﨑博孝
‟判断能力・同意能力のない患者”についての医療行為の決定プロセス
(患者本人へのインフォームド・コンセントが尽きた先には何が必要なのか? 誰に何をどうすればいいのか?)(その2)
第1 人生の最終段階における医療・ケア行為の決定プロセスと‟インフォームド・コンセント”
医療者の医業には、歴史的にみても「倫理」の問題が密接に関わってきました。医療が人の命や健康を対象とするものである以上当然のことといえます。いまの臨床医療で実践されている‟患者の自己決定権を支えるインフォームド・コンセント(IC)”も、この医療倫理の流れをくむものであり、命や健康にかかわる「生命倫理」を抜きにしてはICという理念自体が成り立ち得ないといえます。そしてそれは、人生の最終段階か否かにかかわらず、判断能力・同意能力がなくなってしまい、患者本人への直接のICができなくなってしまった場合であっても同様であり、‟ICの理念や考え方”を前提とした上での‟医療・ケア行為の決定”が必要となるのです。このシリーズにおいてはそのことを述べさせていただきますが、これから述べることはあくまでも私の私見であり、違った考え方もあると思います。しかし、ICという概念が生成されてきた歴史や思想的背景を考えると、やはり以下のような考え方をするしかないと思っています。
1.インフォームド・コンセントの歴史的な成り立ち
(1)ヒポクラテスの誓いと医療倫理-パターナリズムの源流(ICの否定?)
ヒポクラテスは、紀元前420年ころの古代ギリシャに生まれた医師であり、「ヒポクラテスの誓い」を表して‟医聖”と呼ばれています。この「ヒポクラテスの誓い」は、‟生命の尊重”をうたい、‟医師としての最善の医療の施行”を宣言するものであったといわれています。そしてこれは、その後に重要な医療倫理の一つとなり、近年に至るまで「医師の倫理観の基礎」とされてきました。しかしその一方で、ヒポクラテスは、「素人である患者に詳細を説明することは患者を不安がらせるだけであり、何の益にもならない。」などとも言っています。すなわち、このヒポクラテスの言葉には、‟医療行為についての医師の説明と患者の同意(IC)”が言及されていないどころか、それを否定しているかのようにも思えるのです。そしてそのことが、1960年代のアメリカにおいて、「医師のみに目を向けたパターナリズム」との批判を浴びることになってしまいます。
(2)ニュールンベルグ綱領と生命倫理(ヒューマニズム・人道主義を背景としたICの萌芽)
1945年ドイツは連合国に対して無条件降伏しましたが、その終戦直後に、ナチスドイツの非人道的で残忍な人体実験・大量虐殺が発覚しました。しかも、ドイツの精神科医その他の医師・人類学者などがそれに深く関わっていたことも判明し、‟ニュールンベルグ国際軍事裁判”において戦犯として裁かれることになったのです。そして、この裁判で認定された非人道的な犯罪的行為について、二度とこのような残忍で非人道的な人体実験等が起こらないようにするため、1947年に綱領として採択されたのが「ニュールンベルグ綱領」なのです。 ニュールンベルグ綱領では、‟人を対象とした医学的研究”においては、「その被験者の‟自発的な同意”が本質的に絶対に必要である」として、‟被験者の意思と自由”を保護しています。しかしそれは、何も医学的研究の場だけの問題ではなく、‟臨床医療一般”においても同様の倫理観・価値観が妥当するものでした。つまり、ニュールンベルグ綱領は、ナチスの非人道的な残忍行為に対する倫理的対処として採択された法規範ということになります(後付けの刑事罰法規という批判もあります…)。しかしそれは、通常の臨床医療での‟医療者と患者との人間関係”における倫理的規範としても十分に役に立つものであり、そこに‟ICの萌芽”が見られるのです。また、ニュールンベルグ綱領には、直接的にはナチスドイツの行った非人道的な虐殺行為や人体実験に対する反作用という側面がありますが、その反作用の背景となった倫理的思潮は「ヒューマニズム・人道主義」以外に考えられません。そして、その後の医療の世界において、ニュールンベルグ綱領に依拠してICが成立したということは、IC自体の思想的な背景にも、ヒューマニズム・人道主義という倫理的思潮が存在するということになるといえます。
(3)世界医師会の1964年ヘルシンキ宣言-1975年東京修正-(ICを‟臨床研究”へ)
ニュールンベルグ綱領は、大戦後の各国の医師たちに衝撃を与え、その波紋は、世界医師会でのその後の数年にわたる議論を経て1964年のヘルシンキ宣言に行き着きました。医学の進歩のためには‟人体実験が不可欠”であることを認めながらも、‟被験者個人の利益と福祉”を‟科学の社会に対する寄与(貢献)”よりも優先すべきであるという原則に立ち、臨床研究の倫理を守るための具体的な手続を明らかにしました。そしてこれが、現在の‟臨床研究の基本”となっており、臨床医療におけるICの先駆けとなっているのです。そこでは、「医師は、被験者が臨床研究の内容を知らされたうえで、自由意思で行う同意(IC)を、被験者からできれば文書によって得ておくべきである」とされ(臨床研究におけるICの実現)、そしてこのことは‟臨床医療においても同様である“と認識されるに至るのです。
(4)現代的意味でのIC概念の成立-パターナリズムの排斥(ICを‟臨床医療”へ)
以上のとおり、大戦後のニュールンベルグ綱領や世界医師会のヘルシンキ宣言には、ヒューマニズム・人道主義を倫理的背景とした‟ICの萌芽”がみられます。しかし、これはあくまでも「ヒトを対象とした医学研究」(生体実験)を前提とするものであり、‶一般的な臨床医療”を対象としたものではありませんでした。また、‟患者の人権”という側面からの直接的で具体的な捉え方もされてはいませんでした。そして、現在の臨床医療における‟ICという理念”の成立は1960年代のアメリカでの「患者の人権運動」まで待たなければなりません。つまり、ICは、この当時のアメリカ市民が患者の人権運動によって‟医者本位の独善的な医療(パターナリズム医療)”から勝ち取った「患者の権利(自己決定権)」なのです。それ以前のアメリカでは、医師と患者との間で医療契約が結ばれると、医師に一切の裁量権が与えられると考えられていたようで、それに疑問を持ったアメリカ市民の多くが、自分たちの受けた医療行為を知るために訴訟を提起するようになり、そこでの‟裁判規範”の基とされたのがニュールンベルグ綱領、ヘルシンキ宣言だったのです。そして、これらの裁判で成立した考え方が‟IC法理”なのです。ICの法理は、自由主義・個人主義を基調とするデモクラシー社会のアメリカで、1960年代から1970年代初めにかけて、‟患者の権利と医師の義務“という視点からの、‟患者と医師との人間関係”をめぐる新しい生命倫理観に基づく裁判上の法理として確立されたといえます(もちろん、ICの法理がヒューマニズム・人道主義を倫理的背景として成立していることも否定できません)。
(5)日本における‟ICの法理”の輸入(アメリカ的ICから日本的ICへのリメイク)
わが国も、このようにアメリカで成立したIC法理を臨床医療に輸入せざるをえませんでしたが、‟患者の権利と医師の義務という側面”が強すぎるアメリカのIC法理を日本的にリメイクして導入しました。すなわち、日本医師会は1990年に「生命倫理懇談会報告書」を明らかにし、旧厚生省は1993年に「インフォームド・コンセントの在り方に関する検討会報告書」を公にしていますが、ここでは、‟権利と義務の相克(せめぎ合い)”という側面よりも、‟ICを医療者と患者との人間関係の潤滑油”として捉え、‟より良き医療を成立させるための中核”として位置付けているのです。より良い医療を実現させるためには、「医療者」と「患者及びその家族」との間の信頼関係を前提とする‟協働関係”が必要不可欠ですが、その協働関係をより効率的で質の高いものとしてくれるのがICということになるのです。
2.人生の最終段階におけるインフォームド・コンセント(IC)の新しい展開
しかし、これまでのICの法理は、‟超高齢化多死社会”において、その改変を余儀なくされているようで、新しい展開を見せています。すなわち、超高齢化多死会社における‟人の人生の最終段階”では、その多くが自らの意思決定を外部に表明できないまま死を迎えざるを得ないのであり、これまでのIC概念のみでは対応できないことが明らかになったのです。また、人類における医学・医療の進歩は、治療などの医療・ケア行為の選択の幅を拡げており、それをこれまでのIC概念のみで患者に選択を迫ることには困難を伴うこととも否定できなくなっています。 そこで新たに登場したのが、アドバンス・ケア・プラニング(ACP)であり、シェアード・ディシジョン・メイキング(SDМ)であるといえるのではないでしょうか。そしてそれは、端的に言えば、‟より親密に高齢患者に寄り添い、より深く高齢患者の意思を探求する”という試み(患者の意思の深堀りによる‟患者意思の明確化と合理化”)であり、‟より合理的な患者意思の形成”と‟それを実現するための新しい試み”ということになりそうです。
(1)アドバンス・ケア・プラニング(ACP)(判断能力等を欠いた高齢者のICの実質化)
人生の最終段階ガイドライン(平成30年版)解説編では、「近年の高齢多死社会の進行に伴う在宅や施設における療養や看取りの需要の増大を背景に、地域包括ケアシステムの構築が進められていることを踏まえ、また、近年、諸外国で普及しつつあるACP(アドバンス・ケア・プラニング:人生の最終段階の医療・ケアについて、本人が家族等や医療・ケアチームと事前に繰り返し話し合うプロセス)の概念を盛り込み、医療・介護の現場における普及を図ることを目的に、1)本人の意思は変化しうるものであり、医療・ケアの方針についての話し合いは繰り返すことが重要であることを強調すること、2)本人が自らの意思を伝えられない状態になる可能性があることから、その場合に本人の意思を推定しうる者となる家族等の信頼できる者を含めて、事前に繰り返し話し合っておくことが重要であること…等の観点から、文言変更や解釈の追加を行いました。(要約)」(1頁)とされています。 すなわち、同ガイドラインではACPが採り入れられており、それは「患者、家族等、医療・ケアチーム間の話し合いを通じて、患者の価値観を明らかにし、これからの治療・ケアの目標や選考を明確にするプロセス」を意味します。つまり、患者が、家族等、医療・ケアチームと一緒に、現在の病気だけでなく、意思決定能力が低下した場合に備えて、終末期を含めた医療や介護のことを話し合うことや、意思決定ができなくなったときに備えて、患者本人に代わって意思決定をする人(家族等)を決めておくプロセスを意味するのであり、「人生会議」とも呼ばれています。そして、ICなどに基づく患者本人の意思決定とはいっても、人生の最終段階においては多くの場合に判断能力を欠くことになるのであり、それを想定したICの実現方法を、それ以前の段階から「家族等」とともに模索しているのです(【注1】)。すなわち、それは、‶判断能力・同意能力を欠いてしまった高齢者へのICを実質化しようとする試み”でもあるのです。
【注1】人生の最終段階ガイドライン(平成30年版)解説編では、「本人の意思が明確でない場合には、家族等の役割がいっそう重要になります。」(2頁)として、「家族等」の役割を強調しています。
(2)シェアード・ディシジョン・メイキング(SDМ)(ICの更なる進化・深化)
いまの臨床医療には‟患者の自己決定権に基づくIC”が欠かせません。しかしその一方で、「医師は説明する役割」、「患者は医師の説明を聞いて自分で決める役割」という役割分担が(悪い意味で)固定化し、そのことが逆に患者の意思決定の阻害要因になっています。医学・医療の知識に乏しい患者、大病で精神が弱っている患者に対し、‟新しく有効な治療方法とされているものの、エビデンス(科学的根拠)の確実性が高くない治療法”、あるいは、‟終末期の幾つかの医療行為”などを、その複数の選択肢の中から自ら選択させ決定させること(自己決定権を行使させること)は容易なことではなく、また残酷なことでもあります。 そこで議論されるようになったのが「シェアード・ディシジョン・メイキング」(以下「SDM」といます。)であり、「共有意思決定」・「共同意思決定」・「協働意思決定」などと訳されています。これは、患者側と医療者側の双方が医学的な意思決定プロセスに貢献することを意味し、医療者が患者に治療法や代替法を説明し、さらに、患者が自分の価値観や意向や希望に最も合った治療法等の選択ができるよう、医療者が積極的に支援するものとされています。患者ひとり一人の生活環境や習慣・好み・思いを、患者や家族等とデスカッションすることによって医師やその他の医療スタッフが共有し、患者に病気や治療法に関しても十分に理解してもらった上で、その患者が最も納得できる最善の治療法を選択する手法であり、医療者と患者がエビデンス(科学的根拠)を共有して一緒に治療法を決定することになります。そしてそのことは、人生の最終段階ガイドライン(平成30年版)にも反映されており(【注2】)、ACPのプロセスにおける‟患者・家族等と医師その他の医療スタッフ間の繰り返しの話合いの手段”ともいえそうです。
いずれにしても、「(症例によっては)SDM(共有意思決定・協働意思決定)がICの中核をなすものである」ということは否定できません。むしろ、‟理想的なIC”は、‟シェアード・デシジョン・メーキング(SDМ)に基づいた共有意思決定・協働意思決定”ともいえるのかもしれません。
【注2】この点について、透析の開始と継続に関する提言(令和2年4月版)では、「2018年には、高齢多死社会の進展に伴い、地域包括ケアシステムの構築に対応する必要があることや、人生の最終段階の医療とケアについて、患者にとって最良の選択を行うために繰り返し話し合うプロセスである共同意思決定(SDМ)と、本人が家族等や医療・ケアチームと事前に繰り返し話し合うプロセスであるアドバンス・ケア・プラニング(ACP)の概念を盛り込んだ『人生の最終段階における医療・ケアの決定プロセスに関するガイドライン』(人生の最終段階ガイドライン(平成30年版))に改訂した。」(177頁)とし、透析の見合わせ(透析を一時的に実施せず、病状の変化によって透析を開始する、または、再開すること)におけるICのプロセスにACPとSDМという概念を組み込んでいます。 また、透析の開始と継続に関する提言(令和2年4月版)では、ACPとSDМとの関係について、「ACPは単に、ADの(アドバンス・ディレクティブ)の作成や代諾者の指定等の人生の最終段階における医療に関連する一連の手続きを示すものではない。ACPをすすめるなかで、ADの作成、代諾者の指定、あるいは特定の医療行為の開始や中止の決定につながると考えられ、ACPは個人の価値観、目標、選考に合致した医療とケアを目指すSDМのプロセスを促進する。」(186頁)として、ACPとSDМの相互作用について指摘しています。
3.‟患者の合理的意思による自己決定権”に基づく医療・ケア行為の決定
人生の最終段階ガイドライン(平成30年版)を見る限り、人生の最終段階における医療・ケアにおいては、‟患者本人の意思決定(自己決定権)を基本”としながらも、‟医学的妥当性と適切性を基に慎重に判断すべきである”(同ガイドライン1頁)としている点については注意を要します。すなわち、‟絶対的な患者の意思”を前提としたICにはなっていないのです(【注3】)。
【注3】この点について、人生の最終段階ガイドライン(平成30年版)では、「人生の最終段階における医療・ケアについて、医療・ケア行為の開始・不開始、医療・ケア内容の変更、医療・ケア行為の中止等は、医療・ケアチームによって、医学的妥当性と適切性を基に慎重に判断すべきである。」(1頁)とされています。
(1) 前にも述べたとおり、‟医療行為についてのIC”は、これまでの判例・裁判例の積み重ねを見る限り、それを抽象的かつ象徴的に表現するならば、「‟医療者による適切かつ十分で分かり易く丁寧な説明”と、それによってもたらされる‟患者の理解・納得・選択を経た上での同意”」ということになりそうです。すなわち、「医療者の適切かつ十分で分かり易く丁寧な説明」(‟正しい説明” 【注4】)によって、「患者・家族等が理解し納得し選択して同意すること」(‟正しく形成された患者の意思”)ということになり、そこには「医療者の客観的で正しい説明の過程」と「患者の主観的意思の正しい形成過程」との2つの側面があります。そして、そのことによって正しく形成された‟患者の意思”に基づいて‟その自己決定権が行使される”ということになるはずです。もちろん、ここでの「正しく」の意味には、当該医療行為が‟医療倫理に反しないこと”が含まれ、また、‟医療水準を著しく下回るものではないこと”なども含まれることになります。
【注4】この点について、人生の最終段階ガイドライン(平成30年版)解説編では、「医療・ケア行為の開始・不開始、医療・ケア行為の内容の変更、医療・ケア行為の中止等については、最も重要な本人の意思を確認する必要があります。確認にあたっては、適切な情報に基づく本人による意思決定(インフォームド・コンセント)が大切です。」(2頁)としており、そのことを意味するものと思われます。
(2) すなわち、ここで重要なことは、医療者の正しい説明によって正しく形成された患者の主観的意思は、‟合理性のある患者の意思(合理的意思)”ということになるはずという点です。医療・ケア行為には、人の命や健康を扱うことから人倫に反しない‟医療倫理”が求められ、また、医療水準を下回らないことも求められることになります(【注5】)。すなわち、人倫に反する医療行為を患者が求めても、医療者はこれを拒絶することになりますし、また、医療水準を著しく下回る医療行為を求められても、それは受け入れらないということにもなります。したがって、例えば、いかに患者本人が積極的な医療行為によって死を望んでいようとも(不合理な治療行為を求めていても)、「医療者はその患者本人の不合理な意思(希望)には従えない(不合理な希望を叶えてやることはできない)」ということになるはずです(【注6】)。 いずれにしても、救命可能な患者が、救命のための医療行為を拒否しているときであっても、あるいは、救命のための医療水準を充たした最善の医療行為を選択してくれないときであっても、‶患者のその意思が明確である以上、それに反する救命のための合理的な医療行為”を患者に強制することはできません。しかし現実には、少なくとも‟医療者は救命可能な医療(合理的な医療)を受けるように当該患者を説得すること”になるはずです。そしてそれは、まさに‟患者が自己決定権を行使する最終的な患者の意思が合理的なものでなければならない”ことを前提にしているからではないでしょうか。
【注5】この点について、人生の最終段階ガイドライン(平成30年版)解説編では、「よりよい人生の最終段階における医療・ケアには、第一に十分な情報と説明(本人の心身の状態や社会的背景に鑑み、受ける医療・ケア、今後の心身の状態の変化の見通し、生活上の留意点等)を得たうえでの本人の決定こそが重要です。ただし、②で述べるように、人生の最終段階における医療・ケアとしての医学的妥当性・適切性が確保される必要のあることは当然です。」(3頁✳注1)と説明しています。そして、上記の②(3頁)においては、「②人生の最終段階における医療・ケアについて、医療・ケア行為の開始・不開始、医療・ケア内容の変更、医療・ケア行為の中止等は、医療・ケアチームによって、医学的妥当性と適切性を基に慎重に判断すべきである。」としているのです。
【注6】人生の最終段階ガイドライン(平成30年版)解説編では、「別途設置される話し合いの場は、あくまでも、本人、家族等、医療・ケアチームの間で、人生の最終段階における医療・ケアのためのプロセスを経ても合意に至らない場合、例外的に必要とされるものです。」(6頁✳注16)としていますが、そもそも、患者本人、家族等、医療・ケアチームの間で合意に至らない場合が想定されていること自体が、医療・ケア提供者は、患者本人や家族等からの不合理な要求には応じられないことを前提としているものと思われます(なお、ここにある「別途設置される話し合いの場」とは、同ガイドラインでは、「複数の専門家からなる話合いの場」とされ、「医療・ケアチーム以外の者を加えて、方針等について検討及び助言を行うことが必要である。」(2頁)とされていますが、例えば当該病院が設置した臨床医療倫理委員会などを利用することが考えられます。)。 また、透析の開始と継続に関する提言(令和2年4月版)でも、「人の尊厳の中では自律、すなわち自分のことは自分で決めることが最も重要な要素であり、患者・家族等・医療チームの間で十分な情報共有のもと繰り返し話し合ったCKM(保存的腎臓療法)選択の合意を尊重すべきである。透析の見合わせに関する確認書を患者・家族等(相続人を含む)から必要に応じて取得する。患者・家族等・医療チームの間で透析見合わせの合意が形成されない場合には繰り返し話し合い、合意形成に努める。」(188頁)、「医療チームは、家族等による意思決定が患者の人生の尊厳に値するものであり、家族等の十分な情報共有のもと繰り返し話し合ったCKM選択の合意を尊重すべきである。それらを確認できたら、意思決定能力を有する患者からの透析見合わせの申し出と同様に対応し、透析の見合わせに関する確認書を必要に応じて取得する。患者の意思を推定できない場合、または、家族等と合意形成できない場合には繰り返し話し合い、合意形成に努める。」(同頁)とされており、同様の趣旨だと思われます。
(3) 人生の最終段階ガイドライン(平成30年版)(本文1~2頁、解説編4~5頁)によれば、人生の最終段階(終末期医療など)においては、①患者の意思が確認できる場合には、‟患者の状態に応じた専門的な医学的検討を踏まえた上でのICに基づく患者の意思決定を基本とする”とされていますが、「専門的な医学的検討を踏まえて」とは「医療の妥当性・適切性(合理性)を踏まえること」を意味するものと思われ、無条件に患者の意思に従うことを求めているものではないはずです(【注7】)。また、②患者の意思が確認できない場合に、(1)‟家族等が患者の意思を推定できるときには、その推定意思を尊重し、患者にとっての最善の方針をとることを基本とする”とされていますが、ここでも「患者にとっての最善の方針」(合理的な治療方針)を前提としており、いかに患者の意思が推定されるからといって無条件にそれに従うこと(家族等の意思に従うこと)を求めているものでもありません。さらに言えば、(2)‟家族等が患者の意思を推定できないときには、患者にとってなにが最善であるかについて家族等と十分に話し合い、患者にとっての最善の方針をとる”とされていますが、このときにも「患者にとっての最善の方針」(合理的な治療方針)を前提としているのです(【注8】)。すなわち、「患者にとっての最善の方法」とは、医療・ケアチームが「医療・ケアの妥当性・適切性」を判断することを前提とするもので、‶患者が通常人であれば、救命ために望む治療方針”を意味することが多いと思われ、それが患者の「合理的な意思」ということになるはずです。
【注7】この点について、人生の最終段階ガイドライン(平成30年版)解説編では、「よりよき人生の最終段階における医療・ケアの実現のためには、まず本人の意思が確認できる場合には本人の意思を基本とすべきこと、その際には十分な情報と説明が必要なこと、それが医療・ケアチームによる医学的妥当性・適切性の判断と一致したものであることが望ましく、そのためのプロセスを経ること、また合意が得られた場合でも、本人の意思が変化し得ることを踏まえ、さらにそれを繰り返し行うことが重要だと考えられます。」(4~5頁✳注10)と説明されています。
【注8】この点について、人生の最終段階ガイドライン(平成30年版)解説編では、「家族等がいない場合及び家族等が判断せず、決定を医療・ケアチームに委ねる場合には、医療・ケアチームが医療・ケアの妥当性・適切性を判断して、その本人にとって最善の医療・ケアを実施する必要があります。」(5頁✳注14)と説明されています。
(4) 確かに、医療・ケア提供者の医療・ケア行為は‟患者の意思”に沿ったものでなければなりません。しかしそれは、「医療としての妥当性・適切性をもったもの」が求められており、少なくとも、医療倫理に反しない合理的な医療行為、医療水準を著しく下回ることのない合理的な医療行為でなければならないということなのではないでしょうか。医療・ケア従事者に求められるICは、このように合理性をもった医療・ケア行為を前提とするものであり、それは終末期の医療・ケア行為であろうが、救命のための医療行為であろうが、一般的な医療行為であろうが、それはいずれも同様であって、ICは‟患者の合理的意思の形成”のために存在すると考えられるのです。 したがって、患者や家族等の意思が不合理な医療・ケア行為の選択(救命を望まない選択など)であり、それが人倫に反する選択、医療水準を著しく下回る選択と考えられる場合には、医療・ケア提供者は‟その患者の意思に従わない”ということもありえます。しかしそうではあっても、医療・ケア提供者は、合理的な医療・ケア行為(救命のための医療・ケア行為)を患者の意思に反して勝手に施すことも許されないのですから、倫理的に許容されない又は医療水準を著しく下回る不合理な医療・ケア行為を望んでいる患者や家族等を、合理的な選択の方向に導くべく粘り強く説得するしか方法がない、ということなのです。人生の最終段階ガイドライン(平成30年版)でいう「(患者、家族等医療ケアチーム間で)「合意に至らなかった場合」、透析の開始と継続に関する提言(令和2年4月版)でいう「(患者、家族等、医療チーム間で)「合意が形成されない場合」とは、このような事態を想定しているのではないでしょうか。そしてそれは、患者が判断能力・同意能力を失ってしまった場合でも同様であり、家族等の意見と医療・ケアチームとの意見が食い違う場合には、その当事者間においてその合意の形成の努力を続けていかなければならないということになります。 確かに、患者の意思は尊重されなければならないのですが、その患者の意思は、医療者のICによって導かれる「医療の妥当性・適切性(合理性)に則った最善の方針」の影響を受けざるを得ないと考えるべきです。そしてそのことは、患者の意思の推定においても同じことと言わざるを得ないように思えます。
4.人生の最終段階における医療・ケア行為の決定プロセスと“「家族等」の重要性”
人生の最終段階ガイドライン(平成30年版)は、判断能力・同意能力のない患者など人生の最終段階における医療・ケア行為の決定プロセスを次のように整理しています。 そしてここでは、医療・ケア行為の決定プロセスに関し「家族等」の存在を重視しています。患者が判断能力・同意能力を失った時に、患者の意思を知るためには、最も近しい関係にあったと思われる「家族等」に、その意見等を聴くのが最も妥当かつ適切な方法と考えられるからです。
(1)医療・ケア行為は、人生の最終段階(終末期)におけるそれ(終末期医療)であっても、❶患者本人の理解・納得・選択・同意(IC)が原則であり、患者本人の意思を蔑ろにすることはできません。ICとは、日本語に翻訳すれば、「医療・ケア提供者側による‟適切かつ十分で分かり易く丁寧な説明”と、それによってもたらされる‟患者側の理解・納得・選択を経た上での同意”」ということになりそうですが、さらに近時では、ACP(アドバンス・ケア・プラニング)やSDM(シェアード・デシジョン・メーキング=共同意思決定)が重視されその効果を高めようとしていますが、そこでは「家族等」の患者の意思決定のプロセスへの関与が重視されています(以上の点は「(その2)」を参照してください。)。
(2)また、人生の最終段階(終末期)においては、患者本人がその意思を明確にすることが不可能な場合も多くなりますが、そのような場合に重視されるのが「家族等」ということになります(もっとも、この点は前述したとおり、患者の判断能力・同意能力に問題がない段階においても、ACPが取り入れられた意思決定プロセスにおいては、「家族等」を含めた患者と医療チームとの意思の疎通が重要になっています。)。 すなわち、患者本人のいま現在の意思が明らかでない場合には、まず、❷家族等が患者本人の意思を推定することになり、その‟患者本人の推定意思”を尊重し、‟患者本人にとっての最善の方針”をとることを基本にすることになります。このような場合に、アドバンス・ディレクティブ(事前の指示書)やリビング・ウィル(生きている間に発効する遺言)などがあれば、それを加味することによって‟家族等が患者本人の意思を推定できるか否か”を判断することもできると思われます(【注9】)。
【注9】アドバンス・ディレクティブ(AD)とは、判断能力を失った際に自らに行われる治療やケアに関する意向を‟判断能力があるうちに意思表示すること”をいいます。「事前指示」と訳され、これを書面にしたものが「事前指示書」と呼ばれています。アドバンス・ディレクティブで指示した内容は尊重されますが、必ずしも実行されるとは限らないことから、アドバンス・ディレクティブ(事前指示書)の中に、自分に代わって治療やケアの内容について医療者側と話し合ってほしい家族や友人を指名しておくことができます(代理人の指定)。一方、リビングウイルとは、判断能力を失った際に自分に行われる治療やケアに関する意向について判断能力があるうちに表示される意思のことをいいます。リビングウイルには、アドバンス・ディレクティブと異なり、代理人の指名は含まれていません。
(3)家族等が患者本人の意思を推定できない場合には、❸患者本人にとって何が最善かについて、患者本人に代わる者として「家族等」と十分に話合い、「患者本人にとって最善の方針をとる」ことを基本とすることになります(【注10】)。 そしてさらに、❹家族等がいない場合及び家族等が判断を医療・ケアチームに委ねる場合には、患者本人にとっての最善の方針をとることを基本としており、その場合には、医療者は、当該患者本人のために最善の医療を施すことが必要となります。
【注10】人生の最終段階ガイドライン(平成30年版)解説編では、「本人の意思決定が確認できない場合には家族等の役割がいっそう重要になります。特に、本人が自らの意思を伝えられない状態になった場合に備えて、特定の家族等を自らの意思を推定する者として前もって定め、その者を含めてこれまでの人生観や価値観、どのような生き方や医療・ケアを望むかを含め、日頃から繰り返し話し合っておくことにより、本人の意思が推定しやすくなります。その場合にも、本人が何を望むかを基本とし、それがどうしても分からない場合には、本人の最善の利益が何であるかについて、家族等と医療・ケアチームが十分に話合い、合意を形成することが必要です。」(5頁✳注13)と説明しています。
(4)最善の医療とは、医学的に妥当かつ適切な医療ということになりますが、その場合であっても、「家族等」が重要な役割を果たします。医療者が患者本人にとって‟何が妥当で適切なのか、何が最善の医療なのか”(患者の最善の選択の道筋)を模索する中では、人生において生活を共にし、価値観を共有してきた「家族等」の意見や考え方、過去の事実の認識などが聴取され重視されることとなるのです。
(5)以上のとおり、人生の最終段階ガイドライン(平成30年版)解説編では、「家族等」の意見・考え方(意思表示)や事実認識が重視されており、そのために「家族等」の定義的なものも明確にしています。つまり、このガイドライン解説編では、「家族等」を「本人が信頼を寄せ、人生の最終段階の本人を支える存在であるという趣旨ですから、法的な意味での親族関係のみを意味せず、より広い範囲の人(親しい友人等)を含みますし、複数人存在することも考えられる」(5頁✳注12)と定義づけしているのです。もちろん、血縁関係は重視されないわけではありませんが、より過去の生活実態や価値観の共有が重視され、患者との過去の信頼関係が重要とされています。
(6)いずれにしても、医療・ケア提供者の医療・ケア行為は患者の意思に従ったものでなければなりませんが、それは最終的には、「患者の真意」による「患者の意思」でなければならないはずです。そして、患者が判断能力・同意能力を失った時に、それを探る術(すべ)の一つが「家族等」の存在であり、そこから聴取した事実や事情であろうと思われます。そのことによって医療・ケア提供者は、「患者の真意に添った意思」を探り当てることが求められるのであり、「家族等によって患者の意思を推定する」とはそういう意味だと思われます。患者へのICは、‟当該患者の合理的な意思形成”と、それによる‟自己決定権の行使”のために存在しているのであり、患者への直接の説明が不可能になった以上、それを補完するものとしての「家族等」という存在が重要となってくるのです。 しかしそれでもなお、「家族等」の意見や考え方が、そのまま患者の意思として取り扱われるものではないことを銘記しておくべきだと思料いたします。そして最終的には、その医療・ケア行為の決定プロセスでは、「医療としての妥当性・適切性」という点を考慮した判断が必要であることも認識としておかなければならないのです。