No.35/宗教的輸血拒否者と説明義務(最高裁平成12年2月29日判決)
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No.35/2021.5.6 発行
弁護士 永岡 亜也子
少し古い裁判例ですが、宗教上の信念から、いかなる場合にも輸血を受けることは拒否する(絶対的無輸血)との固い意思を有している患者さんに対して、肝臓の腫瘍摘出手術を施行している最中に、輸血をしない限り救命できない可能性が高いと判断される状態に至ったため、輸血を実施したという事案で、医師の説明義務違反が問われ、これが認められた事例をご紹介します。
1.事案の概要
患者であるA さんは、昭和38年から「エホバの証人」の信者である女性で、いかなる場合にも輸血を受けることは拒否するという固い意思を有していました。A さんの夫は、「エホバの証人」の信者ではありませんでしたが、A さんのその意思を尊重しており、A さんの長男は、「エホバの証人」の信者でした。被告病院に勤務していたB 医師は、「エホバの証人」の信者に協力的な医師を紹介するなどの活動をしている「エホバの証人」の医療機関連絡委員会のメンバーの間で、輸血を伴わない手術をした例を有することで知られていました。ただし、被告病院では、外科手術を受ける患者が「エホバの証人」の信者である場合、その信者が、輸血を受けるのを拒否することを尊重し、できる限り輸血をしないことにするが、輸血以外には救命手段がない事態に至ったときは、患者及びその家族の諾否にかかわらず輸血する、という方針を採用していました。
A さんは、平成4年7月に悪性の肝臓血管腫との診断を受けましたが、当初入院していた病院では、輸血をしないで手術をすることはできないと言われたため、その病院を退院したうえで、輸血を伴わない手術を受けることができる医療機関を探すことにしました。「エホバの証人」の医療機関連絡委員会のメンバーを通じてB 医師に連絡をとってみたところ、がんが転移していなければ輸血をしないで手術することが可能であると言われたことから、翌8月に被告病院に入院し、9月に肝臓の腫瘍を摘出する手術を受けました。その手術に先立ち、A さんの夫と長男は、B 医師らに対し、A さんが輸血を受けることができない旨を伝えるとともに、A さんとその夫とが連署した免責証書を差し入れていました。その免責証書には、A さんが輸血を受けることができないこと、輸血をしなかったために生じた損傷に関しては医師らの責任を問わないことなどが記載されていました。
手術当日、B 医師らは、輸血を必要とする事態が生ずる可能性があったことから、その準備をしたうえで手術に臨みました。患部の腫瘍を摘出した段階で出血量が約2245ミリリットルに達するなどの状態になったため、B 医師らは、輸血をしない限りA さんを救うことができない可能性が高いと判断して、輸血をしました。その結果、手術は無事に終わりましたが、その後、被告病院を退院したA さんは、輸血を拒否する意思を明確に表示していたにもかかわらず輸血をされたことにより精神的損害を被ったとして、被告病院やB 医師らを相手取り、損害賠償請求訴訟を提起しました。
2.裁判所の判断
(1)東京地裁平成9年3月12日判決
第1審は、本件輸血は社会的に正当な行為として違法性がない、などと判示して、A さんの請求を認めませんでした。
(2)東京高裁平成10年2月9日判決
控訴審は、B医師らは輸血に関して採用している方針をAさんに対して説明することを怠ったものであり、これにより、Aさんは、被告病院での診療を受けないこととするか、又は絶対的無輸血の意思を放棄して被告病院での診療を受けることとするかの選択の機会を奪われ、その権利を侵害された、などと判示して、50万円の慰謝料を認めました。
(3)最高裁平成12年2月29日判決
最高裁は、「患者が、輸血を受けることは自己の宗教上の信念に反するとして、輸血を伴う医療行為を拒否するとの明確な意思を有している場合、このような意思決定をする権利は、人格権の一内容として尊重されなければならない。…本件の事実関係の下では、B医師らは、手術の際に輸血以外には救命手段がない事態が生ずる可能性を否定し難いと判断した場合には、Aさんに対し、被告病院としてはそのような事態に至ったときには輸血するとの方針を採っていることを説明して、被告病院への入院を継続した上、B医師らの下で本件手術を受けるか否かをAさん自身の意思決定にゆだねるべきであった…。…本件においては、B医師らは、右説明を怠ったことにより、Aさんが輸血を伴う可能性のあった本件手術を受けるか否かについて意思決定をする権利を奪ったものといわざるを得ず、この点において同人の人格権を侵害したものとして、同人がこれによって被った精神的苦痛を慰謝すべき責任を負うものというべきである。」と判示して、控訴審の判断を維持しました。
3.まとめ
医師の説明義務違反が問われる事案は数多くありますが、具体的な医療行為がされるべき状況は様々であるため、医師が患者にすべき説明の内容・程度については、事案ごとに判断していくほかありません。 本事案は、患者の救命のために輸血が必要であったという事案でしたが、控訴審は、そうであったとしても、そのことにより、説明を怠ったことの違法性が阻却されることはない、と判示しており、最高裁もその判断を維持しています。本事案では、B医師らはあらかじめ、輸血の可能性があることの認識を持っており、万一の場合には輸血を行うという病院の方針もあったわけですから、Aさんに事前の説明を行い、その意向を十分に確認しておく必要があったと言わざるを得ません。 すべての医療行為は、患者の自己決定の下に行われるべきであり、患者が望まない場合には、いかに正当な医療行為であっても行うことはできません。すなわち、医療の現場では、患者の自己決定を最大限尊重しなければならないわけですが、患者が自己決定を行うためには、その判断材料が必要であり、それは、医師からの必要十分な説明にほかなりません。つまり、医師による必要十分な説明は、患者の自己決定の前提となるべきものであって、非常に重要なものなのです。説明義務違反を問われるような事態を回避するためには、その説明の重要性を日頃から意識しておくこと、折に触れて、自らの説明内容・程度について振り返ってみることなどが有用かもしれません。