No.180/肺血栓塞栓症等に関する診療ガイドラインは当時の医療水準を明らかにするものとまではいえない、 として同ガイドラインに沿っていない治療行為につき過失を否定した事例 (大阪地裁令和元年7月31日判決)
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No.180/2025.11.4発行
弁護士 福﨑 龍馬
肺血栓塞栓症等に関する診療ガイドラインは当時の医療水準を明らかにするものとまではいえない、
として同ガイドラインに沿っていない治療行為につき過失を否定した事例
(大阪地裁令和元年7月31日判決)
(はじめに)
本稿で紹介する裁判例は、ある患者(70代後半)が右大腿骨人工骨頭置換術の施術中、死亡したことに関し、患者の遺族が、病院に対し、手術開始時までに深部静脈血栓塞栓症の予防措置及びその発症の有無の検査を怠った過失等があると主張して、損害賠償を求めた事案です。裁判所は、肺血栓塞栓症等に関するガイドラインが、医療水準を明らかにするものとはいい難いとして医師の過失を否定し、請求を棄却しました。 医療訴訟において、医療側の責任が発生するのは、医療側に注意義務違反が認められる場合です。最高裁は「いやしくも、人の生命及び健康を管理すべき業務(医業)に従事する者は、その業務の性質に照らし、危険防止のために実験上必要とされる『最善の注意義務』を要求される」(最判昭和36・2・16東大輸血梅毒感染事件)と述べ、さらに、その「最善の注意義務」とは何かという点については、「診療当時のいわゆる臨床医学の実践における医療水準である」としています(最判昭和57・3・30)。 そして、医療訴訟においては、「臨床医学の実践における医療水準」を認定するに際し、診療ガイドラインが重要な役割を果たしており、診療ガイドラインに反する治療行為は、「臨床医学の実践における医療水準」を満たさないと認定される可能性が高くなります。一方で、診療ガイドラインに従わない治療行為が常に注意義務違反となるわけではありません。 例えば、仙台地裁平成22・6・30判決は、「診療ガイドラインは、その時点における標準的な知見を集約したものであるから、それに沿うことによって当該治療方法が合理的であると評価される場合が多くなるのはもとより当然である。もっとも、診療ガイドラインはあらゆる症例に適応する絶対的なものとまではいえないから、①個々の患者の具体的症状が診療ガイドラインにおいて前提とされる症状と必ずしも一致しないような場合や、②患者固有の特殊事情がある場合において、相応の医学的根拠に基づいて個々の患者の状態に応じた治療方法を選択した場合には、それが診療ガイドラインと異なる治療方法であったとしても、直ちに医療機関に期待される合理的行動を逸脱したとは評価できない。」としています。今回紹介する裁判例も、診療ガイドラインの性質や、患者固有の事情に応じた治療方法の選択から、診療ガイドラインに沿っていない治療について、注意義務違反はないと判断しています。
1 事案の概要(大阪地裁令和元年7月31日判決)
原告の妻A(以下「A」という。)は、8月14日(以下、月日のみ記すときは、平成27年のそれを指す。)午後5時頃、自転車で走行中転倒し、右股関節を負傷し、歩行することができなくなり、被告病院へ救急搬送された。Aは、右大腿骨頚部骨折のため、入院の上、外科的治療が必要であると診断され、同日、被告病院に入院し、同月18日、腰椎麻酔下に右大腿骨人工骨頭置換術(本件手術)を受けることとなった。なお、Aは、同月14日、糖尿病の既往と自己判断で服薬してないことを申告したほか、採血を受けている。 主治医であるD医師は、同月17日、原告及びCに対し、本件手術について説明した。その際、D医師は、「手術説明書(人工骨頭)」(以下「本件手術説明書」という。)を用いて説明した。Aの上記の採血結果について、同日、Dダイマー値8.6μg/ml、HbA1c値6.7%と報告された。
D医師の指示で、本件手術までの間、Aの左足には弾性ストッキングが装着され、Aの右下肢には介達牽引が実施されていた。D医師が、Aに対し、本件手術までの間、右下肢のマッサージ、間欠的空気圧迫法、抗凝固療法、下肢静脈エコー、下大静脈フィルターを実施することはなかった。 Aは、同月18日、本件手術を受けた。本件手術の経過は、以下のとおりである(下記(ア)から(カ)の時刻は、いずれも同日の時刻である。)。 (ア)午前9時36分、Aが手術室に入室した。 (イ)午前9時57分、Aに対する腰椎麻酔が開始された。 (ウ)午前10時36分、本件手術が開始された。D医師は、Aを左側臥位の状態として、切開を行い、右大腿骨頚部を切除し、骨頭を摘出した。 (エ)午前11時23分頃、D医師がリーミングを開始した(ただし、被告は、正確にはラスピングを実施中であったと主張している。)ところ、Aの心拍数がそれまで70~80回/分台であったのが40回/分台前半に低下し、SPO2も下降した。Aは、まもなく、自発呼吸が停止し、意識消失した。 (オ)D医師は、本件手術を中止するとともに、Aに対し、同時分頃に硫酸アトロピンを、午前11時24分頃と午前11時34分頃にエホチールを、それぞれ投与した。 (カ)午前11時37分頃には、Aに対する人工呼吸も開始されたが、心拍が10回台ないし20回台となり、午前11時44分以降、心臓マッサージ、カウンターショック、ボスミン心注が行われたが、改善しなかった。 (キ)午後0時37分頃、Aは、心臓マッサージを継続している状態で手術室を退室し、病室に戻った。Aは、同日午後2時26分、右下肢静脈血栓症を原因とする肺動脈血栓塞栓症により、死亡した。
2 裁判所の判断
(1)静脈血栓塞栓症の予防(リスクレベルの評価法と対応する予防法)
本件ガイドライン(「肺血栓塞栓症および深部静脈血栓症の診断,治療,予防に関するガイドライン(2009年改訂版))には、以下の記載がある。・・・ 静脈血栓塞栓症の予防に関し、リスクの階層化とそれに応じて推奨される予防法がある。整形外科手術については、人工股関節置換術・人工膝関節置換術・股関節骨折手術(大腿骨骨幹部を含む)が高リスク分類とされ、高リスク分類の手術を受ける患者に静脈血栓塞栓症の既往あるいは血栓性素因の存在がある場合が最高リスク分類とされる。低リスク分類では早期離床及び積極的な運動が、中リスク分類では弾性ストッキング又は間欠的空気圧迫法が、高リスク分類では間欠的空気圧迫法又は抗凝固療法が、最高リスク分類では抗凝固療法と間欠的空気圧迫法の併用又は抗凝固療法と弾性ストッキングの併用がそれぞれ推奨されている。 上記のリスクレベルは、予防の対象となる処置や疾患のリスクに、付加的な危険因子を加味して決定され、例えば、強い付加的な危険因子を持つ場合にはリスクレベルを1段階上げるべきであり、弱い付加的な危険因子の場合でも複数個重なればリスクレベルを上げることを考慮する。静脈血栓塞栓症の付加的な危険因子の強度として、肥満やエストロゲン治療等が「弱い」、高齢や長期臥床等が「中等度」、静脈血栓塞栓症の既往、下肢ギプス固定等が「強い」とされている。 上記各予防法の推奨度は、低リスク分類における早期離床及び積極的な運動と中リスク分類における弾性ストッキングが「ClassⅠ」(検査・治療が有効、有用であることについて証明されているか、あるいは見解が広く一致している。)であり、中リスク分類における間欠的空気圧迫法、高リスク分類における間欠的空気圧迫法又は抗凝固療法、最高リスク分類における抗凝固療法と間欠的空気圧迫法の併用又は抗凝固療法と弾性ストッキングの併用はいずれも「ClassⅡa」(「ClassⅡ」(検査・治療の有効性、有用性に関するデータ又は見解が一致していない場合がある)のうち、データ・見解から有用・有効である可能性が高い)である。
(2)本件ガイドラインの性質
静脈血栓塞栓症に関しては、診断・治療・予防に関して未だ確固たるエビデンスが乏しい現状にある。本件ガイドラインは、臨床の循環器内科医や心臓血管外科医および手術に携わる外科系の医師が、静脈血栓塞栓症をどのように診断して治療していくかの指針を示したもので、静脈血栓塞栓症の診療では、主治医の判断が優先し、また、静脈血栓塞栓症に対しては、今後新たな知見を積み重ねていく必要がある。
(3)争点に対する裁判所の判断(D医師には、本件手術開始時までに、深部静脈血栓症の予防措置を怠った過失が認められるかについて)
原告は、静脈血栓塞栓症の発症リスクが高い患者については、下肢へのマッサージ又は間欠的空気圧迫法若しくは抗凝固療法を実施すべきことが臨床医学の実践における医療水準となっていることを前提として、被告病院の医師は上記原告の主張のとおりの注意義務を負っていた旨主張する。そして、本件ガイドラインには、原告の主張の内容に沿う記載があり、本件手術(右大腿骨人工骨頭置換術)は、本件ガイドラインにおいて静脈血栓塞栓症の高リスク分類とされる整形外科手術(人工股関節置換術、股関節骨折手術)に該当する。そこで、このように静脈血栓塞栓症の発症リスクが高い患者に対して、下肢へのマッサージ又は間欠的空気圧迫法若しくは抗凝固療法を実施すべきことが臨床医学の実践における医療水準となっていたといえるか検討すると、次のようにいうことができる。 いわゆる診療ガイドラインは、一般的には、医療現場における適切な診療を補助するための指針であって、臨床医学の実践における医療水準のいかんを認定するに当たって重要な資料の一つであることは否定できない。 しかしながら、上記の事実によれば、本件ガイドラインにおいて、静脈血栓塞栓症については診断・治療・予防に関して未だ確固たるエビデンスが乏しい状況にあるとされているほか、本件ガイドラインは、飽くまで、臨床の循環器内科医や心臓血管外科医および手術に携わる外科系の医師が、静脈血栓塞栓症をどのように診断して治療していくかの指針を示したものにとどまり、静脈血栓塞栓症の診療では、主治医の判断が優先するとされている。そうすると、本件ガイドラインが、直ちに臨床医学の実践における医療水準を明らかとするものといえるかどうかについては、疑問なしとしない。 また、本件ガイドラインにおいては、静脈血栓塞栓症のリスクレベルが高リスク分類とされた場合には間欠的空気圧迫法又は抗凝固療法が、最高リスク分類とされた場合には抗凝固療法及び間欠的空気圧迫法の併用又は抗凝固療法及び弾性ストッキングの併用が、それぞれ推奨されているが、その推奨度はいずれも「ClassⅡa」(データ・見解から有用・有効である可能性が高い)であり、「ClassⅡ」(検査・治療の有効性、有用性に関するデータ又は見解が一致していない場合がある)に分類されている以上、検査・治療の有効性、有用性に関するデータ又は見解が一致しているかは明らかでない。 そして、D医師は、間欠的空気圧迫法については、これが患者に一定の負担を強いることになるとか、患者による適切な使用を維持することが容易でないなどといったD医師自身の診療経験を踏まえてこれを採用せず、弾性ストッキングや弾性包帯等によって静脈血栓塞栓症の予防を図ることとし、抗凝固療法についても、これを術前に行うことは手術の際の出血性合併症のリスクを高めることから、手術後においてのみ実施することとしている旨述べているところ(原告は、D医師はAに弾性包帯を施していない旨主張するが、Aの患側肢に対して弾性包帯を施し、その巻き直しもしていたとのD医師の供述は信用することができる。)、D医師のこれらの判断が不合理・不適切であったといえるに足る医学的知見は見当たらない。 そうすると、本件ガイドラインの記載が、臨床医学の実践における医療水準を明らかとするものとは考え難いものというべく、上記の記載があるからといって、その内容が臨床医学の実践における医療水準を示すものとまでいうことはできない。以上によれば、静脈血栓塞栓症の発症リスクが高い患者に対して、間欠的空気圧迫法若しくは抗凝固療法を実施すべきことが臨床医学の実践における医療水準となっていたとはいえない。 ・・・以上によると、D医師に、本件手術開始時までに、深部静脈血栓症の予防措置を怠った過失があったと認めることはできない。
3 まとめ
以上の通り、本裁判例は、本件ガイドラインについて臨床医学の実践における医療水準を明らかとするものとまではいえないとしていますが、一方で、全ての裁判例が同じ考え方を採用しているわけではなさそうです。 本裁判例の判断とは異なり、静脈血栓塞栓症について、「予防ガイドライン等に従った医療行為が実施されなかった場合には、このことにつき特段の合理的理由があると認められない限り、これは医師としての合理的裁量の範囲を逸脱する」と判断している裁判例もあります(東京地裁平成23年12月9日判決など)。 また、本事案で問題となったガイドラインは「肺血栓塞栓症および深部静脈血栓症の診断、治療、予防に関するガイドライン(2009年改訂版)」ですが、最新のものは「肺血栓塞栓症・深部静脈血栓症および肺高血圧症に関するガイドライン(2025年改訂版)」に名称変更されており、また、ガイドラインの書きぶりも大きく変わっているようです。したがって、本裁判例の考え方を、将来発生する医療訴訟において、裁判所がそのまま採用するかは未知数といえます。 医療訴訟において、診療ガイドラインが重要な意味を有することは間違いありません。もっとも、合理的な理由に基づいて、診療ガイドラインと異なる治療をすることが、必ずしも否定されるわけではありません。医療紛争に巻き込まれないためにも、仮に、診療ガイドラインと異なる治療行為を行う場合には、そのことの合理性を説明し得るかを十分に検討し、そのことを患者家族にも説明して同意を得るようにし(IC)、その上で、検討した結果としての合理的な理由や患者家族に説明した内容をカルテ等に書き残すことが有用であると思われます。
